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『ソーネチカ』リュドミラ・ウリツカヤ すべてを受け入れることと本の中の世界の救済


リュドミラ・ウリツカヤの出世作

2002年刊行作品。新潮社の外国文学レーベル新潮クレスト・ブックスからの登場。オリジナルのロシア版は1992年に発表されている。原題は『Сонечка』。

ソーネチカ (新潮クレスト・ブックス)

作者のリュドミラ・ウリツカヤ(Людмила Улицкая)は1943年生まれのロシア人作家。児童文学の書き手としてスタートし、本作『ソーネチカ』で、フランスのメディシス賞外国小説部門と、イタリアのジュゼッペ・アツェルビ賞を受賞し注目を集めるようになっていく。2013年の『クコツキイの症例』では、ロシア国内最高峰の文学賞、ロシア・ブッカー賞を受賞し、その名声を不動のものとした。

近刊では2021年に『緑の天幕』を上梓。こちらは700ページ超の大長編で、第二次大戦後から、ソヴィエト崩壊までの激動の人々を描いた年代史となっている。

ウリツカヤ作品として、わたしはこの『緑の天幕』を読みたいと思ったのだけど、あまりの長さにビビり気味で、まずは短めの作品である『ソーネチカ』から読んでおこうと思った次第。

おススメ度、こんな方におススメ!

おすすめ度:★★★★(最大★5つ)

ソヴィエト時代のロシアを描いた作品を読んでみたい方。ロシア版「女の一生」的な作品に興味のある方。まずは一冊、リュドミラ・ウリツカヤ作品を読んでみたい方。読書が大好きで、本の世界にいつでも没入できてしまう方におススメ!

あらすじ

第二次世界大戦の渦中。本を愛し、図書館で働くソーネチカは、収容所帰りの芸術家ロベルト・ヴィクトロヴィチの求愛を受け、妻となる。当局の監視を受け、流刑地を転々とする貧しい暮らし。ソーネチカは夫と生まれてきた我が子ターニャを愛し、暖かな家庭を築いていく。しかし娘が連れてきた美しい少女ヤーシャが現れたことで、静かな暮らしには変化が訪れる。

ここからネタバレ

不思議な家族の物語

『ソーネチカ』は不思議な物語だ。ヒロインのソーネチカはいたって地味な性格で、美人とはほど遠い容貌の目立たない女性として描かれる。夫には従順で自己主張はほとんどしない。貧しい暮らしにも淡々と耐え家族に尽くす。ソーネチカは人生に多くを望まない。娘の成長を喜び、芸術家としての夫の才能が評価されていくのを喜ぶ。平穏な日常に幸せを見出せるキャラクターで、その口癖は「なんてこと、こんなに幸せでいいのかしら」だ。

ソーネチカの人生に大きな変化が訪れるのは、ターニャの友人である孤児のヤーシャを引き取り同居生活を始めてからだ。生きていくために手段を択ばないヤーシャは、ソーネチカの夫ロベルトを誘惑し関係を持ってしまう。

現代人として理解しがたいのは、夫の裏切りを知ってからの、ソーネチカの受け止め方だ。ソーネチカは17年続いた幸福な結婚生活の終焉を悟りながらも、こう考える。

「あの人のそばに、若くて、きれいで、やさしくて、上品なあの子がいてくれたら、こんないいことはない。優れているところも非凡なところも、あの人と釣り合っているもの。人生ってなんてうまくできているんだろう、老年にさしかかったあの人にこんな奇跡がおとずれて、あの人のなかの一番大事なもの、絵の仕事にもう一度立ち戻らせてくれたなんて」

『ソーネチカ』p107より

確かにヤーシャの存在は、世界的にも評価されていたアーティスト、ロベルトの芸術家魂に最後の火を灯している。だからといって、夫の裏切りを知ったその日のうちに、短時間でここまでの境地に到達することが果たしてできるだろうか。ソーネチカの包容力に、現代の読み手としては衝撃を受けてしまう。そこには単なる諦念とか、譲歩などといった概念を超えた大きな愛情が確かに存在しているのだ。

夫ロベルトの最期は、ヤーシャと同衾中の腹上死だった。奔放な生活を続ける娘のターニャはペテルブルクへと去り既に傍にはいない。ソーネチカは夫の葬儀をヤーシャと共にやり遂げる。ロベルトの死後もヤーシャとの暮らしは続き、二人の間には疑似親子的な信頼関係が培われていく。現代の価値観では(というか当時ですらも)、なかなかこのような心境に至ることはむずかしいのではないだろうか。聖人レベルと言っていい。

静謐な本の中の世界

ソーネチカは幼い頃からの本の虫で、手が空いた時間にのべつまくなく本を読んでいる。ソーネチカの物語への没入ぶりは常軌を逸している。

ものを読む才能が人並みはずれている、というか、ある意味で天才的だったのだろうか。書物に対してあまりに鋭く感受性がはたらくので、架空の主人公が実在の親しい人と同等に思え、たとえば、死んでいくアンドレイ公爵の枕元で気高くもナターシャ・ロストワが苦しみに耐えている場面と、愚かな不注意で四歳の娘をなくした姉が嘆いている痛々しい姿とが、どちらも真にせまって感じられるのだった

『ソーネチカ』p6より

夫の裏切りを知ったその日ですらも、ソーネチカはプーシキンの短編「百姓娘になりすました令嬢(「ベールキン物語」収録の「百姓令嬢」かと思われる)」の作品世界に入り込み、いつのまにか静かな幸福感に満たされているのだ。

ともすればソーネチカの行為は、辛い現実から逃れて、物語の世界に精神の安寧を求めているだけの痛々しい姿にも思えてくる。だが、ソーネチカの静謐な本の中の世界は、もっと高い次元で完結しているように思えるのだ。ヤーシャを嫁がせ、長い長い老後の一人暮らし時代、ソーネチカはただひたすらに物語世界の中を揺蕩う。

ソーネチカにとっては、現実世界と本の中の世界は等価だったのだろう。同じだけの価値を有する世界を他に持っているからこそ、ソーネチカは過酷な現実を赦すことが出来たのではないか。物語世界の中の一存在として、自身を相対化できたのではないだろうか。

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