米澤穂信のダークな青春小説
2006年刊行作品。単行本書下ろし。これまで米澤穂信作品は、角川、東京創元社から出ていたが、三社目の版元は新潮社である。刊行タイミング的には『夏期限定トロピカルパフェ事件』と『遠まわりする雛』の間に出た作品ということになる。
2007年版『このミステリーがすごい! 』で15位にランクインしている。
新潮文庫版は2009年に刊行されている。
おススメ度、こんな方におススメ!
おすすめ度:★★★(最大★5つ)
メンタルの安定している方(←重要)、明るく前向きなきょうだいにコンプレックスを感じている方、ダークな世界に触れてみたい方、人生はやり直しがきかないことを改めて実感したい方、新幹線が来る前の金沢の街を楽しみたい方におススメ!
くれぐれもメンタルが弱っている時には読んではいけない作品である。あっという間に暗黒面に持っていかれるので身構えて読んで欲しい。
あらすじ
高校生の嵯峨野リョウは、今は亡き同級生、諏訪ノゾミの菩提を弔うべく東尋坊を訪れていた。強い目眩と落下感覚の後、再び彼が目覚めたとき、そこは似て非なるパラレルワールドだった。自宅に戻ったリョウを待ちかまえていたのは、本来生まれていなかった筈の姉。自身の存在しない世界で知らされる、ありえたかもしれないもう一つの未来……。
冬の金沢を舞台とした物語
『ボトルネック』は冬の金沢(それから東尋坊)を舞台とした物語である。
厚い雲にほとんど光を吸い取られた弱々しい太陽があった。
『ボトルネック』p7より
序章に書かれているこの言葉が冬の北陸を象徴してる。冬の北陸はとにかく晴れない。重苦しい曇天の日々が続く。雪も降るし、雷も多い。快晴となることが多い太平洋側とは全く気候が異なるのである。米澤穂信は、大学時代を金沢で過ごしており、当時の体験が本作には活かされてかされているのであろう。
↓ここからネタバレ。
光と影、残酷な「間違い探し」の世界
自分が生まれておらず、本来生まれていない筈だった「姉」が存在していた、、という並行世界に紛れ込んでしまった「ぼく」の物語。パラレルワールドモノのかと思って、もっといろいろな世界を放浪していくのかと思ったけど、最初から最後まで彼が居たのは「姉」が居た世界のみ。このあたりは、ちょっと予想と違った。
今回の主人公、嵯峨野リョウは奉太郎とか小鳩くんあたりから、生気と探偵能力を抜き取って、コンプレックスと自意識を二乗したようなキャラクターだ。そして「姉」である嵯峨野サキはその真逆、生命力があり、想像力に溢れ、活動的で行動力のある人物として描かれる。
不仲な両親、失われた恋人、事故死した兄、リョウの世界で訪れた不幸が、サキの世界ではすべてが逆転し幸福な結果へと変化している。そしてその結果を導いたのはサキ自身の「行動」の結果なのだという。
鏡写しのようなパラレルワールドで、「ありえたかもしれない幸福な世界」を見せつけられるのは、想像を絶する過酷な体験であろう。リョウは自分の存在そのものが「間違い」だったのだと気づかされるのだ。これ、ホントにきつい。惨過ぎる。
「夢の剣」は誰を殺したのか
諏訪ノゾミは、身近な人物のキャラクターをそのまま自分にコピーしてしまう人間である。彼女は厳しい現実世界の中で、自身を「なんでもないひと」と定義し、夢の中にいる、膜に包まれているかのような閉じた殻の中で生きている。
そして、当然それはコピー元である嵯峨野リョウも同様であると言える。非現実感、ドッペルゲンガー。傷つかないで生きていくには自分の精神を鎧うしかなかったわけだ。
夢の中に居る人間を殺せるのは「夢の剣」だけ。
心に鎧をまとった人間でも殺してしまえるのが「夢の剣」である。「夢の剣」は無邪気な悪意や、ねじれた狂気、不確実な悪戯と、作中では示されている。諏訪ノゾミにとっての「夢の剣」は結城フミカだったのだろう。
そして、リョウにとってはこの「サキの世界」そのものが「夢の剣」だったのではないだろうか?辛い人生を歩んできた人間に、「ありえたかもしれない幸福な世界」を見せつけるのである。それは無邪気な悪意、ねじれた狂気、不確実な悪戯以外のなにものでもなかろう。
「川守」は何者だったのか?
東尋坊に向かうリョウとサキ。芦原温泉駅で登場する川守の、作中における異物感が凄い。登場するのはこの1シーンのみなのである。
川守は、生の世界と死の世界の境目にあるとされる、三途の川の「川守」なのではないかと思われる。リョウの世界でのノゾミが死んだ東尋坊、その手前で登場するだけに、これは明らかに意識したネーミングだろう。
<グリーンアイド・モンスター>
ゴーストけい
ねたみのかいぶつ。
生をねたむ死者のへんじたもの。
一人でいるとあらわれ、いろいろなほうほうで生きている人間の心にどくをふきこみ、死者のなかまにしようとする。心のどくを消すほうほうはない。
『ボトルネック』p160より
「心のどくを消すほうほうはない。」。辛すぎる。
川守の示す<グリーンアイド・モンスター>は、リョウのその後の姿を暗示している。
川守は警告する。
「一人でいると魔が差すよ。死んじゃった人が呼ぶんだ。生きている人が羨ましくて、魔になって貶めるんだ」
『ボトルネック』p159より
しかし、第四章のタイトルは「緑の目」である。リョウの精神は幸福なサキの世界に耐えられなかった。ねたみのかいぶつ<グリーンアイド・モンスター>へと、リョウは変貌していくのである。
誰かに決めてもらう人生は罪なのか?
嵯峨野リョウの人生は、現実世界から目を背け、感情を遮断し、できる限り傷つかないで生きていこうとする消極的なものだった。彼の行動に主体性はない。「誰かに決めて欲しい」。自分の人生を自分で決められなかった彼の生き方は罪なのだろうか?
ラスト一行。母親からの残酷なメールは、おそらくリョウの人生を決めてしまっただろう。ここから彼が生を選ぶとは思えない。しかし、最期の瞬間の選択すらも「誰か」に背中を押された結果だったのである。なんの救いもない、重い結末に読み手はただ打ちひしがれるのみである。
「20代の葬送」として書かれた作品
米澤穂信は、古典部シリーズや小市民シリーズ、『さよなら妖精』など、十代の少年少女を主人公とした青春小説を得意分野としてきた作家である。これらの作品は、この作家独自の「苦味」がブレンドされてはいるものの、基本的には前向きでポジティブな属性を持った作品群であった。
しかし、今回の『ボトルネック』は違う。従来の米澤穂信作品のイメージで読むと、大きく予想を裏切られる作品である。
オリジナル記事が消えているのでWayBackMachineからの引用。
米澤……この小説は、自分の20代の「葬送」のつもりで書きました。いま28歳ですが、10代から20代前半の気持ちはあと2、3年経ったらきっと書けなくなる。その前に書き残しておきたいと思いました。もう自分の中で失われつつあるものを必死に掘り起こして書いていくわけですから、そういう意味でも三島さんの仰るとおりストレスのかかる仕事でした。
WayBackMachine:きららfrom BookShop.「米澤穂信熱烈インタビュー」 (2008年9月22日)より
つまり『ボトルネック』は米澤穂信自身の「20代の「葬送」」として書かれているのである。失われつつある10代から20代前半の感性を、最後に残しておきたいとの想いから描かれている作品なのだ。
『ボトルネック』の読後感は「苦味」というよりは、むしろ「毒」に近い。呪いのような作品である。メンタルが安定しないときには絶対に読んではいけない作品だ。
長らく米澤穂信作品のファンを自認しているわたしでも、本作を肯定的に評価する気にはなれないでいる。
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