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『光のとこにいてね』一穂ミチ 運命と出会ってしまった結珠と果遠

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一穂ミチの一般小説、五作目

2022年刊行作品。文藝春秋の小説誌「別冊文藝春秋」に、2021年5月号~2022年9月号にかけて連載されていた作品を単行本化したもの。第168回の直木賞候補作品でもある。

一穂ミチ(いちほいち)はBL小説の書き手としては15年のキャリアを持ち、50作を超える膨大な作品を既に上梓している。が、一般小説としての実績は少なく、本作が五番目の作品となる。

光のとこにいてね (文春e-book)

ちなみに、これまでに刊行されている一穂ミチの一般向け作品は以下の通り。

一般向けのデビュー作は『スモールワールズ』だとする捉え方もある。しかし、わたし的には2016年の『きょうの日はさようなら』を初の一般向け作品と捉えている。

おススメ度、こんな方におススメ!

おすすめ度:★★★★★(最大★5つ)

運命の出会いを信じている方。信じてみたい方。対照的なキャラクターのふたりが、それぞれに惹かれあう物語がお好きな方。タイトル名『光のとこにいてね』が気になる方。一穂ミチ作品に興味がある方におススメ!

あらすじ

小学二年生の小瀧結珠(こたきゆず)は、母に連れられてやってきた集合団地で、同い年の少女、校倉果遠(あぜくらかのん)に出会う。裕福な医者の家で育った結珠と、シングルマザーの母親のもとで暮らす果遠。生まれも育ちもまるで違う。性格も正反対の二人は強く惹かれあう。しかし、別れの瞬間はすぐやってくる。

ここからネタバレ

羽のところ(小学校時代)

小学生篇。小学二年生時代の結珠と、果遠の出会いを描いたパートである。

結珠は母親の「ボランティア」に同行させられ、古びた集合団地を訪れる。母親の目的は愛人との密会のためであり、男と会っている間、結珠はひとりで外で待たされる。医師の家庭に生まれた結珠は、名門女子校「S女」に小学生から通うお嬢様だ。しかし、母親には愛されず、直接的な暴力こそないものの、精神的なDVを日々受けている。

一方の、果遠はシングルマザーの母親と、古びた団地でのふたり暮らし。父親は誰だかわからない。自然派食品にハマる母親は、娘に極端な食事制限を課し、ふつうのシャンプーで髪を洗うことも許さない。あれこれと口うるさい母親のせいで、果遠には友だちがいない。母親は果遠に無関心で、満足な教育も与えられていないし、身の回りのものすら揃えてもらえていない。

裕福な結珠と貧しい果遠。対照的な二人は出会った瞬間からお互いに魅了される。結珠の母親が男と会うために団地を訪れる水曜日の30分だけ、ふたりは会うことが出来る。時計の読み方。三つ編みの編み方。白詰草の花束。きみどりの死。託された防犯ブザー。そして、パッヘルベルのカノンを弾く約束。短いながらも濃密な時間を過ごすふたり。

だが、結珠は子ども心ながらに、この関係が長くは続かないであろうことを理解している。ふたりの別れは唐突に訪れる。

そこの、光のとこにいてね

『光のとこにいてね』p64より

結珠の経っていたところだけが、その瞬間に小さな陽だまりになっていた。光の中にいる結珠と、光に入れない果遠。二人の境遇、関係性を象徴するようかのような瞬間である。

ただ、結珠の「光」は、母親が戻ってきた瞬間に消えてしまう。母親の存在は結珠にとっては影なのだ。結珠の「光」は、果遠の存在があってのことなのではないかと、この時点で暗示がなされている。

雨のところ(高校時代)

高校生篇。「羽のところ」から八年後。結珠と果遠は、S女の同級生として再会を果たす。結珠はもう、果遠と会うことはないと思っていた。しかし、果遠は結珠と再会するためだけにS女を受験した。しかも入学金も授業料も免除で、返済不要の給付型の奨学金までついてくる特待生としての外部入学だった。

しかし、八年の歳月はふたりの関係を遠く隔てたものにしてしまっている。長いS女暮らしで、周囲の人間関係がしっかりと形成されている結珠。それを「弁えて」、果遠は、すぐには距離を詰めてこようとはしない。もう小学生の自分ではない。成長の過程で、果遠は自分の母親が、自分の生活環境がどれほど歪んだものであったのかを理解し、強いコンプレックスを抱いていたのだ。

小瀧さん、校倉さんと、お互いを苗字で呼び合うふたり。身なりをしっかりと整えた果遠は、持ち前の美貌が開花し、誰もが注目せざるを得ない美少女に成長している。結珠に会いたい一心で、S女まで来た果遠。その途方もない熱量とまっすぐさに結珠は圧倒されたじろぐ。

医師の家に生まれた結珠は、医学部に進むことを親から期待されている。予備校に通わされ、家庭教師までつけられる。家庭教師の藤野素生(ふじのそう)は、難関大の医学部に通う兄の後輩で、大学病院の外科部長を務める父親を持つ。結珠は、既に結婚相手すらも親に将来のレールを敷かれてしまっているのだ。

ただ、藤野がきわめてまっとうな男子大学生であったことは、結珠の救いとなっていく。結珠の話をきちんと聞き、本当は小学校の教師になりたいことを聞き出す。そしてその願いの始まりは、幼き日の果遠との交流がきっかけとなっていたことに、結珠は気づく。結珠にとっては、果遠こそが「光」であったことを悟るのだ。

ふたりの最初の約束「パッヘルベルのカノンを弾く」が果たされるシーンは、この物語の最初の名場面だろう。

パッヘルベル(Pachelbel)のカノン(Canon)はこんな曲。って、超有名曲だからみんな知ってるか。もともとは室内楽曲だが、本作ではピアノで演奏されている。

もともとの室内楽版も素晴らしいので、こちらもご紹介(古楽音源にしてみた)。

カノン(Canon)とは楽曲の様式のことで、こんな意味。

カノン (canon) は、複数の声部が同じ旋律を異なる時点からそれぞれ開始して演奏する様式の曲を指す。

カノン (音楽) - Wikipediaより

曲を聴いていただけると判ると思うのだが、一つの旋律が何度も何度も繰り返し、さまざまなアレンジを加えられながら展開されていく。出会いと別れを繰り返しながら、次第にその関係性を変えていく。結珠と果遠の間柄を象徴する楽曲として「パッヘルベルのカノン」は、作中で何度も登場し効果的に使われている。

ふたりの別離はまたしても唐突に訪れる。果遠の母親が職場で問題を起こし、夜逃げせざるを得なくなったのだ。あれほど努力して入学を果たしたS女。やっと会えた結珠と、果遠はまたしても引き離されてしまう。

前回と別れの言葉は同じ。

お願い、十数えるだけ、そこにいてーーそこの、光のとこにいてね

『光のとこにいてね』p185より

ただ、八年前と込められた意味は違う。果遠は明確に、自分が「光」の中に居られないことを自覚している。ただひとり、何も告げずに暗がりに去っていく果遠の姿が心に残る。

なお、果遠が歌うことのなかった、六月の合唱祭で歌うはずだった「さようならの季節に」はこんな歌。1986年度のNHK全国学校音楽コンクール高等学校の部の課題曲だった。作曲は坪能克裕で、作詞は吉沢久美子。音源は女声三部のものをセレクトしてみた(わたしは混声版を歌ったことがある)。

歌詞をしっかりと聞いて欲しい。「さようならの季節に」は青春の日々から「わたしひとり」が去ろうとしている人間の心情を歌ったものなのだ。果遠の心象風景をなぞるものとして、意図的にこの曲がセレクトされているように思える。

光のところ(大人になって)

最終パートは大人篇。十二年後。29歳になったふたりを描く。

結珠は、藤野と結婚し、藤野結珠となっている。高校時代の初志を貫き、念願の小学校教師になったものの、学級崩壊に巻き込まれメンタルに変調をきたし、現在は休職中。藤野の勧めもあって、自然の豊かな本州最南端(和歌山県串本町)の地に転居している。藤野との間に、子どもはないが、以前に流産をしている。

一方の果遠は元消防士の海坂水人(うなさかみなと)と結婚し、海坂果遠となっている。水人との間には、一人娘の瀬々(ぜぜ)が生まれている。この地は果遠の母の出身地である。東京から逃れてきた果遠は、祖母の経営していたスナックを引き継ぎ営業している。果遠の母親は男と逃げ、もう傍にはいない。

二人の再会は、藤野によってある程度予期されたものだった。東京から夜逃げをした果遠は、一度だけ藤野に連絡を取ったことがあった。その情報から藤野は、果遠の居場所を想定することが出来た。心に傷を負った結珠にとって、果遠の存在は癒しになるのではないかと藤野は考えたのだろう。

藤野さん、海坂さん。今度は互いの夫の姓で相手を呼び合うところから、ぎごちなく二人の再会は始まる。「パッヘルベルのカノン」が再び流れる(ここでも果遠は光の中から現れる)。ふたたび繋ぎなおされたふたりの縁だが、彼女らはもう子どもではない。仕事もあれば家族もいる。子ども時代は、親の意向に逆らうことはできない。かといって、大人になったら好きなように生きられるかというとそうでもない。とかく、人は周囲の人間関係に縛られる。

物語が大きく動くのは、結珠の弟、直が登場してからだ。結珠が高校一年の冬に生まれたのが直だ。母親の不貞の結果として生まれた直は、その出生の秘密により悩み、不登校となっている。押しかけるように結珠のもとにやってきた直。年の離れた弟であり、なおかつ「あの」母親の息子である直に、結珠は好意的に接することが出来ない。

果遠と水人の込み入った事情も明らかとなる。果遠の母親が男と逃げたあと、認知症となった祖母は、果遠に対して暴力を振るうようになる。死んでしまえばいい。そう思った果遠の目の前で祖母が倒れる。意図的に祖母を延命させようとしなかったことで、果遠と水人は秘密を共有し、共依存の関係に陥ってしまっている。

止まっていた時間が動き出す

水人の母親の死。これまで水人の家族に向きあうことを避けてきた果遠が、現実と対峙することを決める。結珠は、果遠と水人の間の過去を知らされる。ここでふたりは、二十二年の歳月を経て、ようやく、結珠、そして果遠と、幼き日のように名前で呼び合うことが出来た。最初に行動を起こしたのが、これまでずっと受け身の立場であった結珠だったというのが印象的だ。

果遠に思いを伝えたことで、結珠は積年の課題であった母親との関係に決着をつける勇気を得る。ふたりは、お互いの夫に嘘をついて家を出る。松本までの旅路は、長いあいだ離れて暮らしていたふたりの距離を埋める時間でもある。

なお、作中で何度も言及される、ギュスターヴ・ル・グレイ(Gustave Le Gray)の例の写真はこちらだろうか?

結珠の母親のサイコパス度合いは、いわゆる毒親の域を超えていて、なんら罪悪感を覚えていないどころから、状況を楽しんですらいる。これは確かに、そんじょそこらの女子高生では太刀打ちが出来ないだろう。大人になった結珠ですら、その場に果遠が居なければ、これほどまでにはっきりと意思を表明することはできなかったはずだ。結珠が母親と会うことはもう二度とないのだろう。

幸福と別離を繰り返す

結珠の母親の問題が決着しふたりは帰途に就く。しかしふたりの幸せな時間は長くは続かない。直と瀬々が家を出て帰らないのだという。

わたしたち、ずっとこんなふうなのかもしれない。束の間のささやかな幸福と別離を繰り返すカノン。だったら次の音符は決まっている。

『光のとこにいてね』p417より

生まれながらに幸薄く育った果遠は、幸せな状態に自分が長く在ってはならないのではないか。そう自分を罰しているかのように思える。この時点で果遠の覚悟は決まっていたのだろう。果遠は水人との離婚を受け入れ、瀬々すらも手放すことを決意する。更には結珠すらも置いて、「わたしひとり」でこの地を去ろうとする。

目が覚めたら、藤野のところに帰ってねーー光のところにいてね

『光のとこにいてね』p417より

三度目の「光のところにいてね」は、決然とした果遠の意志として示される。一度目と二度目の別れが、それぞれの親の身勝手によるものだったのと異なり、今回は大人になった果遠自身が、悩みぬいた末に下した決断だった。客観的に見て、結珠の夫は真剣に妻を愛してるし、出来すぎなのではと思えるくらいの人格者である。家柄も良く稼ぎもある。結珠自身にもきちんとした仕事がある。結珠のことを思えばこその、身を引こうとする決断だったのだろう。

だが、結珠は果遠の決断を断じて認めない。お嬢さまとして育った結珠が、髪を振り乱して果遠を追いかける。これまで能動的に人生を生きてこられなかった結珠が、ほんとうに必要な存在を得るために駆け出すシーンはこの物語のハイライトである。「羽のところ」で、初対面のときの果遠が鼻血を出していたのと、「光のところ」のラストで結珠が自らを殴りつけ流した鼻血は、明確に対になるシーンとして描かれている。

海が光っていた。波も光っていた。空も光っていた。結珠ちゃんの車のボンネットもフロントガラスも、すべて光の中にいた。

『光のとこにいてね』p417より

「光のとこに」にいた結珠が、その光属性を隠そうともせずに、自らの「光」でもある果遠を求め走りだす。だが、ふたりが共に生きるという選択は、自分たち以外の存在を深く傷つけることでもある。あれだけ忌み嫌った母親と、ふたりは同じ道を行こうとしているのかもしれないのだ。

明るさって無情、ふと思った。光は希望の象徴だけど、照らされたら逃げも隠れも出来ない。嘘やごまかしを許してくれない。そして足下に影を生む。

『光のとこにいてね』p319より

ふたりは果たして再会できたのか。そして再会できたとしてもそれからどうなるのか?それは描かれずに物語は終わる。人は生きていくうえで光を求めずにはいられない。それが生きていくための希望だからだ。しかし光あるところには影が生まれる。影を抱えたまま光を追い求める。それが人間の姿であるのかもしれない。

初版限定ショート・ストーリー「青い雛」

『光のとこにいてね』には、初版限定のサービスとして、限定ショート・ストーリー「青い雛(ひな)」がついてくる。

これは、団地時代の果遠の隣人であったチサの視点で描かれた物語。果遠にとってチサの存在が救いであったように、チサにとっても果遠の存在は福音だった。青い雛=幸せの青い鳥を意味しているのかも。

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