潮谷験のデビュー作
2021年刊行作品。作者の潮谷験(しおたにけん)は1978年生まれ。本作『スイッチ 悪意の実験』で第63回のメフィスト賞を受賞し、作家デビューを果たしている。
講談社文庫版は2023年に刊行されている。カバーデザインは全く異なるテイストに変わってしまった。
デビューから現在に至るまでの作品リストはこんな感じ。二年少々で四作だから、かなりのハイペースで書いている印象だ。
- スイッチ 悪意の実験(2021年)
- 時空犯(2021年)
- エンドロール(2022年)
- あらゆる薔薇のために(2022年)
おススメ度、こんな方におススメ!
おすすめ度:★★★(最大★5つ)
あらすじを読んで面白そう!と思った方。奇妙なルールの「ゲーム」を取り扱ったミステリ作品が好きな方。メフィスト賞作品に興味のある方。人間の心の在り方について関心を持っている方におススメ。
あらすじ
人気の心理コンサルタント安楽是清が提案した奇妙な心理実験。それは人間の「純粋な悪」を確かめるためのものだった。箱川小雪ら六人の被験者に渡されたのは、幸せな家庭を崩壊に導くためのスイッチ。実験に参加すれば、スイッチを押しても押さなくても一か月後には100万円がもらえる。スイッチを押す者などいない。誰もがそう信じて実験は始まったのだが……。
ココからネタバレ
登場人物一覧
まずは登場人物を確認しておこう。最初に「実験」の主催者から。
- 安楽是清(あらきこれきよ):人気の心理コンサルタント。資産家
続いて被験者の皆さん。計六人。
- 箱川小雪(はこがわこゆき):主人公。狼谷(ろうこく)大学文学部史学科在籍
- 三島大我(みしまたいが):狼谷大学文学部史学科在籍。小雪の友人
- 桐山玲奈(きりやまれな):狼谷大学文学部史学科在籍。小雪の友人
- 香川霞(かがわかすみ):狼谷大学の卒業生
- 徐博文(じょはくぶん):狼谷大学大学院博士課程在籍
- 茂木水観(もぎすいかん):狼谷大学勤行(ごんぎょう)館職員
そして「悪意」の対象となる家族の皆さん。
- 鹿原弘一(しかはらこういち):ベーカリー「ホワイト・ドワーフ」経営者
- 鹿原柚子(しかはらゆずこ):弘一の妻
- 鹿原望(しかはらのぞみ):弘一・柚子夫妻の娘
- 鹿原学(しかはらまなぶ):弘一・柚子夫妻の息子。衛とは双子の兄弟
- 鹿原衛(しかはらまもる):弘一・柚子夫妻の息子。学とは双子の兄弟
「純粋な悪」は存在するのか?
鹿原弘一が経営するベーカリーは全く流行っておらず、いつ潰れてもおかしくない状態だ。それを資産家でもある安楽是清の経済援助が辛うじて支えている。しかし、今回の実験では被験者がスイッチを押した時点で、安楽は鹿原家への援助を打ち切ると言う。
被験者たち六人のスマートフォンには、スイッチを押すことが出来るアプリがインストールされる。実験に参加している間は毎日一万円が支給される。更に実験終了後、スイッチが押されようが押されまいが必ず百万円がゲットできる。
何もしないでも百万円以上の収入が得られるのだ。ふつうに考えればスイッチを押す必要はまったくない。しかしスイッチは押されてしまう。スイッチを押したのは誰なのか。そしてその理由は?というのが物語序盤の謎。
中盤からの意外な展開
物語の中盤に入り、本作は思いもよらぬ展開を遂げる。ベーカリーの店主、鹿原弘一が妻の柚子によって殺害されてしまうのである。スイッチをめぐる心理ゲームが続いていくのかと思っていたので、この流れは予想外だった。
何者かの意図により鹿原家は崩壊を遂げていく。そこには「純粋な悪」は存在したのか?これは何気ないちょっとした、ささやかな悪意が、思わぬ形で波紋を広げていく系のお話なのかな?とも考えたのだが、終盤では更に意外な方向に物語は進んでいく。進展がなかなか読めない。これは本作の魅力の一つだと思う。
主人公の特異性
ここで主人公の箱川小雪(はこがわこゆき)について考えてみよう。小雪は狼谷(ろうこく)大学文学部史学科の二回生。狼谷大学は京都にある仏教系の大学のようなので、元ネタは大谷大学なのではないかと推測される。小野不由美の出身校として有名かな。
小雪には幼少期に「悪いものをつかみ取る才能」があると断じられた過去がある。小学校時代には小雪の判断をきっかけとして、クラスメイトが自殺に追い込まれてしまう。それ以来、小雪は自分の頭で判断することを放棄する。小雪は自分では何も考えない。決断を迫られたとき、小雪は自らの意思を完全に切り離した、脳内コイントスで行動を決める。
自分の行動を自分で決めることが出来ない。自分の判断に信を置くことが出来ない。小雪の自己評価は著しく低い。脳内コイントスを続けることは、かつての自分に対しての罰であり、緩慢な自傷行為でさえあったのかもしれない。
宗教要素の強い作品だった
作品の後半以降では、小雪と鹿原弘一の意外な関係が明らかになる。鹿原弘一は宗教団体、光意安寧(こういあんねい)教を主宰する教祖だった。そして、教団には幼い日の安楽是清も関与していた。
主人公の箱川小雪が仏教系の大学に通っていることもあって、前半からちょっと宗教ネタが多いなと感じてはいた。しかしまさかこの話全編が、まるまる宗教ネタで構成されていたとは驚かされた。
教祖として宗教団体を興しながらも解散の憂き目に遭い。失意の中で追い込まれていく鹿原弘一。弱い教祖として描かれる鹿原の姿は、自分を大切に出来ない小雪の姿に重ねられていく。この構成はなかなか上手い。
自虐もまた罪
破滅へと至った鹿原弘一と、本来の自分を取り戻すことが出来た小雪。二人の差はどこにあったのだろうか。
小雪の心を救ったのは桐山玲奈のこの一言である。
「安楽さんが言ってたじゃない。理由もなく人を傷付けるのが一番恐ろしい悪だって。だったら」
眼差しが貫く。
「その反対も、同じだよ。根拠もないのに自分を傷付けるのだって、きっと、同じくらい罪深いことなんだ。
『スイッチ 悪意の実験』p196より
鹿原の心の弱さは多くの人々を不幸にしていく。何よりも鹿原の弱さは、鹿原自身の心を蝕んでいく。幼い日のトラウマから、自分を信じられなくなっていた小雪についても、鹿原のようになってしまう可能性はあったはずだ。
しかし、小雪には玲奈が居た。桐山玲奈自身も幼い日の過ちを後悔しながら生きて来た人間である。そんな玲奈を変えたのは、小雪、大我と出会った「正義の三人」事件だ。報われたという思いは時として人を変える。
自分の判断で生きていない。他者に寄りかかって生きてきたという点では、鹿原の妻である、柚子はその典型である。小雪が救われ、最後に柚子が、夫の呪縛から解放された点は、この物語の福音と捉えることが出来るだろうか。
おまけ
本作p76で言及されるヴァン・ダイク・パークス(Van Dyke Parks)のアルバム『Song Cycle』はこんな楽曲。こちらは一曲目の「Vine Street」。確かにこれは捉えどころのない音楽だなあ。
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