ミステリ系各賞上位ランクインの話題作
2023年刊行作品。書下ろし。表紙イラストは尾崎伊万里(おざきいまり)によるもの。
作者の井上真偽(いのうえまぎ)は、第51回メフィスト賞受賞作、2015年刊行の『恋と禁忌の述語論理』がデビュー作。年齢、性別不明、もちろん顔出しなしの覆面作家だ。
作品リストは以下の通り。
- 恋と禁忌の述語論理(2015年)
- その可能性はすでに考えた(2015年)
- 聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた(2016年)
- 探偵が早すぎる(2017年)
- ベーシックインカムの祈り(2019年) ※単行本タイトル『ベーシックインカム』)
- ムシカ 鎮虫譜(2020年)
- アリアドネの声(2023年)
- ぎんなみ商店街の事件簿 Sister編/Brother編(2023年)
2020年の『ムシカ 鎮虫譜』以降、しばらく新刊が出ていなかったが、2023年は本作『アリアドネの声』に加え、大作の『ぎんなみ商店街の事件簿』も刊行され、長年の井上真偽の皆さまには歓喜の年だったのではないだろうか。
『アリアドネの声』は発売されるや、たちまち話題作となり、この年のミステリ系ベスト10に軒並みランクインした。以下、その結果。
- このミステリーがすごい!:2024年版国内編5位
- ミステリが読みたい!:2024年版国内編6位
- 週刊文春ミステリ・ベスト10:2023年国内部門5位
おススメ度、こんな方におススメ!
おすすめ度:★★★★(最大★5つ)
2023年に話題となったミステリ作品を読んでみたい方。井上真偽作品をまず一作読んでみたいと思っていた方。タイトルとあらすじを見て興味を惹かれた方。人間の限界について考えてみたい方におススメ!
あらすじ
巨大地震が発生。目が見えず、耳も聞こえず、話すことが出来ない女性が、地下施設の最深部に取り残された。人間は救助に入れず、現場に入れるのは災害用のドローンだけ。ドローンを取り扱うベンチャー企業で働く主人公は、彼女を誘導し、安全地帯まで導く大任を託される。タイムリミットは6時間。さまざまな困難が立ちはだかる中、彼はミッションを達成することができるのか。
ここからネタバレ
登場人物一覧
最初に本作の登場キャラクターをまとめておこう。
- 高木春生(たかぎはるお):主人公。幼いときに兄を亡くしている。ベンチャー企業タラリア所属。ドローンの操縦技術に秀でる
- 我聞庸一(がもんよういち):タラリア所属。主人公の二期上の同僚
- 花村佳代子(はなむらかよこ):タラリア所属。主人公の上司
- 中川博美(なかがわひろみ):聴覚と視覚に障害を持つ女性。要救護者
- 伝田志穂(でんだしほ):中川博美の介助者
- 韮沢粟緒(にらさわあお):主人公の高校の同級生
- 韮沢碧(にらさわみどり):韮沢粟緒の妹。失語症の障害を抱える
- 長井貞治(ながいさだはる):消防指令
- 火野誠(ひのまこと):消防士長
- 佐伯茉莉(さえきまり):消防士
トラウマを超えていく話
本作の主人公、高木春生は幼いころに海の事故で兄を亡くしている。事故を機に精神を病んだ母。高木は、自分にあと少しの勇気があれば兄を救えたのではないか、そんな悔恨を抱えて生きている。そして兄の口癖「無理だと思ったらそこが限界なんだ」が、高木の人生を呪いのように規定してしまう。
自分で限界を設定してはいけない。どんな時でも決してあきらめてはいけない。乗り越えられない障壁はない。高木の強い想いは、時として他者にも照射され、高校時代の韮沢粟緒には大きな不快感として印象付けられている。
そんな高木が、大規模災害下において人命救助の任を担うことになる。要救助者は、こちら側の出す合図も見えず、指示も聞こえず、そして話すことも出来ない。災害現場では火災が起きており、残された時間はあと僅かである。困難極まりない状況下で、それでも高木は「無理だと思ったらそこが限界なんだ」の信念を貫けるのか。かつて救えなかった命を今度こそは救うことができるのか。トラウマを超えていけるのか?本書の見どころその1はこの点にある。
災害の渦中にある人物をあえて描写しない
最初に難を言ってしまうが、本作は災害パニックモノとしては、臨場感に乏しく、緊迫感がそれほど出てこない側面がある。理由は明確で、いままさに生命の危機を迎えていて、災害の只中にある中川博美の視点で物語が進行しないからだ。物語は、常に高木の目線で進む。しかも、高木が操作するドローンのカメラやセンサー器具を通した、間接的な視点でしか中川博美に起きた事象は描かれないのだ。
本作は高木ら救援組織と、中川博美の間に直接的な意思疎通が出来ない点が肝となっている。これが物語の大前提なので、致し方ない部分ではあるかもしれない。とはいえ、中川博美の心情描写くらいあっても良いのでは?と疑問を感じたりもしたのだが、これは書くことができない重大な理由があったことがラストで判明する。
ちなみに、中川博美の内面は全く描かれていないかというと、実はそうではない。各章冒頭に引用されたヘレン・ケラーのことばが、実はその場面場面での中川博美の状況に即したものとなっている。一読後あらためて読み返してみると面白いのではないかと思う。
あまりに鮮やかなラストの大転換
ラスト4頁前、p295の最後の一行「全身に衝撃が走った」を読んで、わたしたちは読者は身構えたはずだ。直後に何かスゴイどんでん返しが来るはず。とはいえ、のこり数頁しかないのだ。僅か数ページで説明可能などんでん返しなんてあるの?ホントに?
そう思って頁を捲った読者にどんな衝撃がもたらされたか。それは本作をお読みになった方なら、同じ思いを共有できるはずだ。残り僅か数ページで、作者がやってのけた視点の大転換。驚くべき点はそのわかりやすさだ。ここまで読んできて腑に落ちなかった、中川博美の不審な行動の数々。これら全て明確な根拠があったことが瞬時に読み手には理解できるのだ。何も見えない聞こえない、アリアドネの迷宮に光が射した瞬間、真相が開示された瞬間の爽快感という点で、今年ミステリ作品の中でも、本作はピカ一であったと感じる。
考えてみれば中川博美のリアクションには随所に不可思議な点も見られたし、平行して描写される韮沢粟緒の妹、碧の失踪事件は、読む側としてはもっと疑って読むべきだったのだと思う(ネットの感想を見ていると途中で真相に気づいた方もおられた)。作者の上手いところは、まず第一に中川博美が障害を「盛っている」のではとの疑惑を示した点。二点目に、同じ要救助者でありながら、韮沢碧の捜索とで差をつけられた点で、二つの事件が別のものであると読み手に思い込ませた点かな。真相を読み解くカギはいたるところに散りばめられていたのに、綺麗に騙された。