ジュリア・フィリップスの第一作
2021年刊行作品。オリジナルの米国版は2019年刊行で原題は『Disappearing Earth』。作者のジュリア・フィリップス(Julia Phillips)は1989年生まれのアメリカ人作家。本作がデビュー作である。
巻末には、作者による謝辞、訳者によるあとがき、更に釧路公立大学准教授である永山ゆかりによる「カムチャッカ半島案内」が収録されている。未知の土地であるカムチャッカ半島を知る上で格好の資料となっている。
本編読了後、「カムチャッカ半島案内」を読むことで、より理解が深まる。これはありがたい(ただネタバレもあるので事前に読むのは微妙なところ)。
おススメ度、こんな方におススメ!
おすすめ度:★★★★(最大★5つ)
さまざまな年代の女性が登場する小説を読みたい方。未知の場所を舞台とした海外小説を読んでみたい方。ロシア極東部、カムチャッカ半島に興味のある方。さいきんちょっと疲れて来たなと感じている方におススメ。
あらすじ
ロシア、カムチャッカ半島最大の都市ペトロパブロフスクで幼い姉妹が失踪する。それは事故なのか、誘拐なのか。事件は周囲で暮らす人々にさまざまな影響を与えていく。姉妹の姿を最後に見た女。必死に娘の行方を探す母親。同じように娘を失った女とその家族たち。カムチャッカ半島の厳しくも美しい自然と共に、この地で生きてきた十二人の女たちの心の傷跡を辿る。
ココからネタバレ
カムチャッカ半島を舞台とした物語
本作はロシア極東部のカムチャッカ半島を舞台としている。カムチャッカ半島は面積が約47万平米。日本の陸地面積が約37万平米なので、日本よりも25%も大きい。しかし人口は非常に少なく、僅かに31万人である。
こちらにざっくり地図を表示してみた。主な舞台をマーキングしてみた。①が姉妹の失踪場所近辺。②がレーニン広場。③がカムチャッカ州立大学(教育大学ではないかも??)。④が火山研究所。⑤がエッソで、⑥がパラナになる。
たぶん……。キリル文字全く読めないので、Google翻訳と、Googleマップだけが頼り(違ってたらご指摘を!)
倍率を下げてみると日本との位置関係がわかると思う。カムチャッカ半島は北海道より遥かに北に位置する。
カムチャッカ半島は交通網が発達しておらず、最大都市であるペトロパブロフスクから、陸路では半島を出ることが出来ない。道路網も貧弱で、大半が未舗装だ。
ペトロパブロフスク-エッソ間のストリートビューを張ってみた。荒涼とした未舗装路が100キロ単位で続く。
行き止まりの街で
『消失の惑星』は連作短編形式の物語だ。各編ごとに主人公が変わる。カムチャッカ半島に暮らす十二人の女性たちのリアルな心情が綴られていく。
ダメ男にどうしても惹かれてしまう税関吏のカーチャ。中年期に入り、心身の不調に悩む主婦ワレンチナ・ニコラエヴナ。束縛が厳しい彼氏ルースランに閉口し、新しい出会いを模索してしまう女子大生クシューシャ。故郷を捨てた親友との再会に揺れるラダ。厄介な家族との関係に悩むナターシャ。死別した夫と新しい夫。その関係性に悩む看護師のレヴミーラ。だらしない夫を捨てたいナージャ。異郷の男たちに魅せられるゾーヤ。愛犬を喪ったオクサナ。そして失踪した姉妹の母、マリーナ。
カムチャッカ半島は陸路でロシア本土に出ることが出来ない(そして空路はとても運賃が高い)。主要な都市はペトロパブロフスクのみである。この地形的な特徴が、彼女たちの孤独感、閉塞感を強めているように思える。彼女たちはどこにも逃れることが出来ない。
ほとんどの事例を除いて、彼女たちの問題は何も解決しない。悲劇は悲劇のまま。苦悩は苦悩のままで残される。人間、年を取ればとるほどしがらみが増え、人生の選択肢は減っていく。逃げることが出来なくても、人はそこで生きていくしかないのである。
緩やかに絡み合う物語
本作の面白い点は、十二人のエピソードがゆるやかに繋がっているところにある。あるエピソードで主役を務めた人物が、他のエピソードでは脇役として登場する。
カムチャッカ半島は面積こそ広いが、少ない人口がペトロパブロフスクに密集しているだけに人的には狭い。そんな世界で、特定のレイヤー(学歴、職種)だけ拾い上げたら確かに知り合いだらけになりそうだ。この、人と人との距離の近さも、息苦しさを感じさせる要因になっている。
登場するエピソードによって、視点となる人物が変わることによって、同じキャラクターでも印象が異なってくるのも興味深い。人間は場や属性、関係性によって見え方が変わる。ある場面ではダメ男に見えた人物が、とある場面で頼もしい支援者となることもある。意外な人物が、思わぬ場面で再登場する点も、本作を楽しむうえで重要な要素と言えるだろう。
喪失を抱えて生きること
本作には多くの、心に残るシーンがある。とりわけ印象的なのが、失踪した姉妹の母であるマリーナが、カムチャッカ半島の少数民族エウェン人のヌルゲネック(新年の祭)に参加する場面である。
ヌルゲネックでは、人々が焚火を跳び越えれば新しい年に移る。願いが叶う。
しかし、マリーナがそんな気持ちになれるはずもない。娘たちはもう戻って来ないのか。わずかな希望はあるのか。許されるのであれば、娘たちが無事だった過去に戻りたい。
しかし時は止まらない。時間は無慈悲に進んでいく。人は巨大な喪失を抱えたままでも、前に進むしかない。マリーナは、そして人間は望むと望まないとに関わらず、前に跳ぶしかないのである。本作全編を象徴するかのようなシーンで、この物語のクライマックスとも言える場面であった。
意外なラストは救いなのか
マリーナの章(六月)の後に描かれる最終章(七月)では、ちょっと(かなり?)意外な結末が待っている。失踪した姉妹アリョーナとソフィヤ、更にリリヤまでもが無事であることがわかるのだ。
個人的にはマリーナの章で、物語としての決着はついてしまっているように思えた。それだけに、結末はボカした方が良かったように思えるのだが、そんなことを考えてしまうのはわたしがひねくれものだからだろうか。