第169回直木賞受賞作品
2023年刊行作品。第169回の直木賞を受賞している。文芸春秋の小説誌「オール讀物」の2020年5月号~2022年11月号にかけて連載されていた作品を加筆修正のうえで単行本化したもの。表紙絵はイラストレータの岡田航也(おかだこうや)によるもの。
作者の垣根涼介(かきねりょうすけ)は1966年生まれ。デビュー作は、2000年刊行、サントリーミステリー大賞(大賞・読者賞)を受賞した『午前三時のルースター』。ストリートギャングの少年たちを描いた「ヒートアイランド」シリーズや、サラリーマン小説である「君たちに明日はない」で知られるが。2013年の『光秀の定理』の定理以降は、歴史小説の世界にも進出。2018年の『信長の原理』と併せて話題になったのは記憶に新しい。
おススメ度、こんな方におススメ!
おすすめ度:★★★(最大★5つ)
鎌倉幕府の滅亡~室町幕府の誕生、南北朝初期くらいまでの歴史を小説で学びたい方。かつてのNHK大河ドラマ『太平記』が大好きだった方。『逃げ上手の若君』に出てくる足利尊氏がお好きな方。観応の擾乱を小説で読んでみたいと思っていた方におススメ。
あらすじ
源氏の名門足利家に生まれながら、庶子として歴史に埋もれていくはずだった尊氏と直義の兄弟。しかし時代の流れが彼らを歴史の表舞台に引っ張り上げた。衰えつつあった鎌倉幕府。後醍醐帝の蜂起。生存戦略を模索していく中で足利家は権力の階段を駆け上っていく。ただ、一つ大きな問題点が。当主の尊氏にはなんの野心もなければ、気概も、政権構想もなかったのだ。実弟の直義と、家宰の高師直は、やむなく政権の一翼を担うことになるのだが……。
ここからネタバレ
太平記の世界を描く
『極楽征夷大将軍』は「太平記」の時代を描いた歴史小説だ。「太平記」は鎌倉時代末期~室町時代初期までを描いた軍記物語。後醍醐(ごだいご)天皇による鎌倉幕府に対しての蜂起と、楠木正成(くすのきまさしげ)の活躍、足利尊氏(あしかがたかうじ)による六波羅探題攻略、新田義貞(にったよしさだ)による鎌倉攻撃、北条氏の滅亡。そして建武の新政とその挫折。室町幕府の成立と、南北朝の動乱を取り扱った内容となっている。
『極楽征夷大将軍』では「太平記」の中でも特に知られている、足利尊氏とその実弟、直義(ただよし)。さらに足利家の家宰(執事、家臣筆頭みたいな感じ?)高師直(こうのもろなお)の三人にスポットを当てている。
対照的な兄と弟そして有能すぎる家臣
本作の足利尊氏は、書籍の帯の惹句にあるとおり「やる気なし、使命感なし、執着なし」と、およそ幕府創設者とは思えない怠惰で無気力な人間として描かれる。尊氏は側室の子であった。足利家歴代の当主は、北条家の血を引いた者が選ばれており、尊氏は本来、源氏の名門足利家を継げるような立場ではなかった。庶子の扱いだからいずれは本家から出されて、わずかばかりの領地をあてがわれて家臣の列に入る。尊氏の自身に対する評価も低く、常にやる気はなく武芸にも学問にも身を入れようとしない。
一方で、同じ母親を持つ実弟の直義は、勤勉実直。やる気のない兄に困惑しながらも、自分も庶子なのだからと、それなりの処遇で生涯を終える気でいた。だが、足利家が窮地に陥り、自活の道を模索していく中で、直義は無気力な兄に替わって活躍せざるを得ない状況になっていく。
そして、本作のもう一人の主役とも言える人物が高師直だ。師直は足利家の家来なので、いゆわる陪臣(ばいしん)にあたる家柄になる。大名ではなく家来格なので、本来であれば政治を動かせるような立場にはないのだが、足利家特有のお家事情と、持って生まれた有能さとで頭角を現していく。
虚ろの王、天下を取る
本作における尊氏はとにかく自己評価が低い。富や名誉、家族に対する執着すらない(ただし弟だけは大好き)。だから、戦場では平気で最前線に立てるし、命を張れるからこそ周囲の武将たちの信頼が集まってしまう。己の中に芯を持たない虚ろの王、虚無のずたぶくろ。定型がなくそれでいて自在、故に何にでもなれる。あらゆる人々の欲望を受け止めて、それを体現する力を持つに至る。
もっとも尊氏に明確な政権構想が無く、とにかく周囲の情勢にあわせて後手後手で対応していったために、室町幕府の基盤は極めて脆弱なものとなった。足利家の直轄領や、直接動員できる兵力が僅かしか存在しなかった。細川や斯波、上杉など足利以外の武将が広大な領土と動員力を持ったことは、後々まで幕府を苦しめることになる。
足利尊氏という人物は史実のうえでも、相当に訳の分からない人間であったようで、現代人の視点から見ると、逆にそれが魅力的だったりもする。最近では『逃げ上手の若君』に登場する足利尊氏のキャラクターも相当面白く描かれているので、気になる方はこちらもチェックしてみると良いかと。
観応の擾乱をどう描くか
この話の肝は、というか『太平記』のクライマックスは、足利直義VS高師直、そして最終的には足利尊氏VS足利直義の兄弟対決に至る、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれる歴史的事件だ。観応の擾乱は日本史上最大の兄弟喧嘩だったのではないかな?大昔の大河ドラマ『太平記』でも、終盤の真田広之(尊氏)VS高嶋政伸(直義)の対決はメチャメチャ盛り上がった記憶がある。
とにかく物事への執着の薄い尊氏が、唯一なにものに替え難いと思っている実弟直義と、どうして戦う羽目に陥ってしまったのか。尊氏が政治に関わりたくなと逃げ回っていたばかりに、直義と高師直の政治的対立は避けられなくなってしまう。尊氏を支えてきた直義と高師直が傍から離れていく。有能なブレーン二人を失い、結果的に尊氏自らが働かざるを得なくなり、隠されてきた本来の有能さが表に出てくるという展開が燃える。尊氏、実はやればできる子だった!
尊氏は直義と一戦交えることになっても、とにかく相手を討ちたくなかったようで、このあたりのグダグダは、亀田俊和の『観応の擾乱』に詳しく書かれているのでおススメ。この新書、ホントに面白かった。
けっきょく、直義は尊氏に敗れる。歴史上、毒殺説も出ているが、本作では直義の死は病死ということになっている。本作の尊氏ではどんなことがあろうとも、直義を殺せるとは思えないので病死は妥当な決着か。
『極楽征夷大将軍』は二段組549頁にも及ぶ大長編なので、当初、読むのには相当な勇気が必要だった。だが、読み始めてみるとリーダビリティは高く、楽しく最後まで読み終えることができた。終盤に入ると、悲劇的な展開も多いのだが、本作ではお涙頂戴的なウェットな書き方をあえてしていないので、重たくならずに読み通せた。もっと感動的に書くことも出来たのでは?とも思うのだけど、これが垣根涼介という人の作風なのかな。