名作掌編集が復刊!
今は亡き、鎌倉書房の季刊誌「四季の味」にて連載。1982(昭和57)年の春号~1986(昭和61)年夏号にかけて掲載されていた作品をまとめたもの。
単行本版は1987年に新潮社より登場。かれこれ30年以上も前に出た作品である。
筆者の神吉拓郎(かんきたくろう)は1928年生まれの作家。NHK出身で、その後小説家に転身。1984年には『私生活』で直木賞を受賞している。1994年に物故。
本作は長期に渡って絶版状態が続いていたが、2016年に光文社文庫で復刊を果たした。
おススメ度、こんな方におススメ!
おすすめ度:★★★★(最大★5つ)
美味しい食べ物がひたすら出てくる小説を読んでみたい方。40代後半~還暦前くらいまでの方。昭和後期の雰囲気を小説で感じてみたいと思う方。中高年男女の心の機微を描いた作品を探している方におススメ!
あらすじ
懐かしいあの店でもういちど牡蠣フライを食べてみたい。歳月を経てかつての味はどうなったのか(洋食セーヌ軒)。小学校の同級生たちと40年ぶりの再会。思い出されるのは弁当の味(アルミの箸)。とある料理店での出会いから広がる、美味い上海蟹を食べたくなる話(菊黄蟹肥)。横浜、伊勢佐木町の馬車道にあるとびきりの珈琲が味わえる店(エル・ジョロン)。人生の機微を食と共に切り取る、十七の掌編を収録。
ココからネタバレ
人生の瞬間に寄り添う掌編集
『洋食セーヌ軒』は表題作を含む、十七の掌編を収録した作品集である。掌編小説とは短篇小説よりもさらに短い作品を指す。本作では各エピソードの長さは20ページにも満たない。
掌編小説のキモは切れ味だと思っている。とにかくページ数がわずかしかないので、無駄なことは書けない。複雑な内容も書けない。描きたい台詞、キャラクター、場面などをいかに効果的に印象強く読ませていくか。そこが作者の腕の見せどころとなってくる。
この作品集では、中年~初老までの男女ばかりが登場する。様々な人生を生きて来た彼らの、「ちょっとした瞬間」を、食という側面から鮮やかに切り取って見せてくれる。
それでは、以下、各編を簡単に振り返っていこう。
ホーム・サイズの鱒
夫と死別した加奈子は三十代後半の女性。同僚の小峯はバツイチで四十代半ば。加奈子は料理上手の小峯の家を訪れ、料理を振る舞ってもらうことになる。
登場する料理は虹鱒のムニエル。
お互いにそこはかとない好意は抱いているものの、つきあうまでには至っていない。微妙な関係にある中年男女の心の機微を描いた作品である。冒頭の「それにしても見事な虹鱒だった」の書き出しが、いきなり読者の食欲を刺激してくる。食欲は人間の三大欲求の一つである。食事を共にすることで、人と人との親密度は上がっていくのである。
中華街の小さな店
香港への転勤が決まり、これを機に交際していた女に結婚を申し込んだ男。しかし女はそこまで思いきれない。二人の最後の食事の時間が過ぎていく。
登場する料理は、油条(ヨウティヤオ)と鹹荳(豆)漿(シェントゥジャン)。油条は油で揚げたパンのような食べモモの。鹹荳漿は豆乳ベースのスープ。中国北部の食べ方なのだとか。
二話目は一転して男女の別れ話である。饒舌な男と次第に黙り込む女。結婚にたいしての温度差。冷えていく場の空気感が上手く描かれていく。
油条と鹹荳漿については素敵なページを発見したのでリンクを貼っておく。
う
田村聰はかつて住んでいた土地のうなぎ屋で、幼馴染の河本雪子に再会する。それは還暦を前にした、四十年ぶりの再会だった。
登場する料理は鰻。タイトルはせいかくには「う」が〇で囲まれている。
本作は1980年代が舞台の作品なので、50代の彼らは戦前生まれである。青春時代に戦争があり。仄かな行為をお互いに抱きつつも別々の人生を歩んでしまった二人。何かがはじまりそうな余韻を残して物語は終わる。
解説の吉田伸子も書いているが本作の書き出し「鳳仙花がはじけて、空が高くなった」は最高に素晴らしい。
プチ・シモオヌ
高梨は妻に先立たれた中高年の男。姪である加代子は、若くしてパティシエを目指し独立。高梨の支援もあって成功をおさめる。
加代子の経営するプチ・シモオヌでは、作り置きではない「出来立て」のデザートを供する。これは美味しそう。
30を過ぎても独身を通してきた姪が結婚する。親代わりとして何とも言えない寂しさを抱きつつも、二人を祝福する高梨。しかし、その内面には、自分の庇護下にあると感じていた女性が、嫁いでいくことに対するジェラシーもあったのではないか。そんな風にも読めてしまう一編。
アルミの箸
卒業から四十年。津田は小学校の同級生たちと、久しぶりの再会を果たしていた。話題に出るのは弁当の話。のり弁、シャケ弁果たして美味しかったのは?
のり弁。シャケ弁。そしてタラコ弁。こちらは小学校時代のお弁当の話。
どの弁当がいちばん美味かったか。初老の域に入った登場人物たちが、わいわい言いながら優劣を語り合うだけの物語が楽しい。アルミやアルマイトの弁当箱も最近はすっかり見なくなった。きちんと密閉できないから、カバンの中でよく大惨事を起こしていたものである。金属製であるが故に、ストーブで温めて食べる技が使えたのも懐かしい。
鮎の宿
高木はかつて旅先の旅館で出会った鮎子と再会する。旅館の娘であった鮎子は、実家を出て東京で働いているのだという。
本作で登場するのはつぐみの味噌。つぐみを骨ごと叩いて味噌と和えたもの。つぐみは禁猟の鳥なので、本当はいけない話。この時代ならではのおおらかさというか……。
鮎子を口説こうとする、中年男の嫌らしさを感じてしまう一編で、当時としてはこれはアリだったのかもしれないけど、今の感覚で読むとかなり引く。
菊黄蟹肥
「私」は友人の松井が、中国人の李さんと知り合い上海蟹の話題で大いに盛り上がった話を聞かされる。
秋の北京では菊の花盛り。この季節は蟹が肥えて美味しくなるシーズンでもある。
上海蟹が美味い。とにかく美味い!いますぐ食べに行きたい!そんな思いだけで構成されたお話。ストーリーもへったくれもない。旬の上海蟹の素晴らしさがひたすら説かれていく。「菊黄蟹肥」のタイトルがなんとも色覚と味覚を刺激してくるのである。
ことしの牡丹
初孫が生まれた倉岡は、妻と共に娘の住む関西を訪れる。そこで二人は、倉岡の旧友である宮田に出会い、食事を共にすることになる。
牡丹とは、猪肉を意味する隠語である。
この時代の男女は結婚が早いので、五十代でも孫が平気で何人もいる。現代の感覚から読むと、登場人物は十年くらい年上に感じてしまうのだが、あまり変わらないのだよね。本当は。
「ことしの牡丹は、よい牡丹~」はあまり自信がないのだが、わらべうたのひとつかと思われる。この年代の人たちなら常識なのかな。
エル・ジョロン
横浜伊勢佐木町を訪れていた時田は、友人の小室から聞いた珈琲店エル・ジョロンを訪れた。はたしてその珈琲の味は……。
一杯の珈琲をめぐるお話。
伊勢佐木町の有隣堂も登場し、かの地を知るものとしては嬉しい。「エル・ジョロン」はタンゴの名曲で泣き虫という意味であるらしい。曲はたぶんこれ。