新井素子としては珍しい雑誌連載作
2020年刊行作品。KADOKAWAの電子メディア文芸誌「文芸カドカワ」に2017年1月号~2019年8月号まで。「文芸カドカワ」の後継媒体である「カドブンノベル」の2019年9月号~12月号まで連載されていた作品を単行本化したもの。
書下ろしの多い新井素子としては珍しい雑誌連載作品である。先日紹介した『この橋をわたって』のあとがきでは、作家生活40年目にして、短編や連載の依頼執筆原稿を受けるようになったとの記述があったが、本作もその流れに乗るものであろう。
単行本発売時の、こんなまとめも発見!
角川文庫版は2022年に刊行されている。文庫化に際して上下巻に分冊されている。文庫化に際して上巻にあとがきが追加。下巻にも文庫用のあとがきが追加され(単行本時のあとがきももちろん収録されている)、あとがき作家、新井素子の面目躍如ともいうべき、おまけと言えるだろう。
『「いつか猫になる日まで」50's』
古くからの新井素子ファンであれば『いつか猫になる日まで』は当然ご存じであろう。なんと今から40年前!1980年にコバルト文庫から上梓された作品である。二十代の男女六人がなんと宇宙戦争に巻き込まれてしまうお話。通称「いつ猫」。
こちらは再刊された2005年版の書影。
『絶対猫から動かない』のあとがきによると、
で。このお話は、KADOKAWAの金子さんって編集の方が、私にこんなことを言った処から始まります。
「五十代の『いつ猫』をやってみませんか?」
『絶対猫から動かない』あとがきより
とある。本作は『いつか猫になる日まで』的なドタバタエスエフを、50代のキャラクターを中心に据えて書いてみようという意欲的な試みなのである。
おススメ度、こんな方におススメ!
おすすめ度:★★★(最大★5つ)
中高年世代が主人公のエスエフ作品を読んでみたい方、中高年代特有の問題(介護、仕事、家庭)に悩んでいる方、練馬好きの方(笑)、新井素子の『いつか猫になる日まで』を夢中になって読んだ方におススメ。
あらすじ
大原夢路は56歳。偶然乗り合わせた地下鉄の車内で奇妙な出来事に遭遇する。止まってしまった列車と、突然倒れた女性。その場は何事もなく終わるのだが、ここから夢路は毎夜この事件の夢を見続けることになる。やがて彼女は夢の中での出来事が現実を侵食し始めていることを知る。事態の深刻さに気付いた彼女は、夢で出会った人々に連絡を取ろうと試みるのだが……。
ココからネタバレ
600頁超、二段組みの大ボリューム
『絶対猫から動かない』を手に取ってまず感じるのは圧倒的な厚みであろう。640頁超の大長編。しかも二段組みなのである。な、長い。思わずたじろぎそうになるのだが、そこは新井素子作品。読みやすさは相変わらずなので、ページ数の膨大さに比べるとサクっと読めてしまうので、その点はご安心頂きたい。
本作は全十二章構成。一部の例外はあるが、冒頭に三人称形式での全体を俯瞰するような展開が入り、その後に主要人物の一人称による描写が交互に入る。視点がころころ変わるのと、同じ事件を他の人物の一人称でもういちど描写しなおしたりするので、もどかしく感じる部分はあるかもしれない。この書き方をしていなければ、もうすこしコンパクトな分量で収まったのではないだろうか。
主要登場人物が中高年!
この物語で特徴的なのは、あとがきにある「五十代の『いつ猫』をやってみませんか?」という部分からも明らかである通り、主な登場人物が中高年の面子で占められていることである。以下、本作の主な登場人物を列記してみる。
- 大原夢路:56歳。元校正職。現在は専業主婦。呪術師として特別な力を持つ
- 氷川稔:54歳。会社員。総務担当。家庭に問題を抱えている
- 村雨大河:61歳。定年退職し悠々自適の身の上。もうすぐ孫が産まれる。天然キャラ
- 佐川逸美:新卒一年目の中学校教諭。バスケ部顧問
上記四人が一人称パートが存在するメインキャラクター。佐川逸美を除けば見事に中高年ばかりである。それだけ新井素子作品の読者も年を取ったということかな。
その他、重要な人物が何人か存在するのでこちらもまとめておく。
- 関口冬美:夢路の幼稚園以来の幼馴染。専業主婦
- 市川さより:元ヤンキーの看護師。高い戦闘力を持つ
- 佐伯さん:村雨の碁仇。渚の祖父。
- 渚:バスケ部キャプテン。よくできた子
- 伊賀さん:バスケ部副キャプテン。よくできる子
- 三春ちゃん:人間の生気を糧とする超自然的な存在。人間に擬態できる
新井素子文体の功罪
冒頭の「ううう……ういやっ」で脱力してしまったわたくし。
長年の読者にはお馴染み。新井素子ならではの軽妙な一人称文体なのだが、さすがに中高年キャラクターの一人語りとしてこのテイストはキツイ。
新井素子は初期作品でこそ、この文体を多用してたけれども、後年の作品ではシリアスタッチの堅め文体も使いこなしていたはず。もっとやりようはあったのかと思うのだが、「いつ猫」の五十代版を書くというテーマを考えて、あえてこの文体を選択したのかもしれない。
その分、どうしても読み手を選んでしまう作品になっていて、この文体が許容できないと思う方には厳しいかも。
幸せで不安の無い老後、”猫の世界”
本作の主人公大原夢路は、両親と義両親の介護のために仕事を辞めている。人生の折り返し点を過ぎて、長年慣れ親しんだ職場を去り、自身の収入を失っている。生まれなかった子ども。仕事に忙殺される夫。終わりの見えない介護の日々。そんな中で夢路は、幸せで不安の無い老後の象徴として、”猫の世界”に強い憧憬を抱いている。
「いつか猫になる日まで」のタイトルがこのようなニュアンスで使われるとは。作者も、読み手である我々も、確実に年を取ったのだと深い感慨を覚える。
ただ、今回の事件が終わってみても、夢路をとりまく現実は変わらない。非日常の日々はあくまでも仮初めのもので、それが終われば、問題が山積した日常の生活が戻ってくる。三春ちゃんとのやりとりで、死の危険を冒した夢路は「ま、いっかー」の境地に達することが出来たかもしれない。しかし、彼女の問題は何一つ解決していないのだ。
それでも辛い辛いと思って生きるより、「ま、いっかー」の境地で生きることが出来れば、少しだけ日々の暮らしは楽になるかもしれない。現実世界は変わらなくても、心のありよう次第で人生の難易度は変わってくるのである。
魅惑の練馬小説
最後に本作の「練馬小説」としての魅力についても書いておこう。『いつか猫になる日まで』は練馬区の石神井公園周辺を舞台とした作品だった。一方で、今回の『絶対猫から動かない』は練馬区の練馬高野台駅周辺を主な舞台としている。大原夢路の住む、石神井町。村雨大河の住む、石神井台もこの駅の近郊地域である。こういうのは、練馬の民としてはちょっと嬉しい。
練馬高野台駅は1994(平成6)年開業。『いつか猫になる日まで』が書かれた時代には存在しなかった新駅である。Google先生の地図も貼っておく。
練馬区屈指の大病院である(というか練馬にはあまり大きな病院がない)、順天堂大学の練馬病院が近くに存在することが、舞台となった理由の一つかと想像できる。近くにファミレスも数軒あるし、碁会所もあるのだ。