住野よるの九作目
2022年刊行作品。書下ろし。作者の住野(すみの)よるは2015年に『君の膵臓をたべたい』にデビュー。以来、毎年ほぼ1冊新刊を上梓しており、本作が九作目になる。
表紙イラストは房野聖(ぼうのさとし)が担当している。
住野よるの既刊は以下の通り。2016年には二冊出ているけれど、それ以外の年は一冊のみ。計画的に書いてる感じがするね。
- 『君の膵臓をたべたい』(2015年)
- 『また、同じ夢を見ていた』 (2016年)
- 『よるのばけもの』 (2016年)
- 『か「」く「」し「」ご「」と「』(2017年)
- 『青くて痛くて脆い』(2018年)
- 『麦本三歩の好きなもの』(2019年)
- 『この気持ちもいつか忘れる』(2020年)
- 『麦本三歩の好きなもの 第二集』(2021年)
『青くて痛くて脆い』以降の新刊は実は読めていなかったのだけど、久しぶりに住野作品を読んでみた。
作者いわく、この物語の愛称は「ハラワタ」だそうです(笑)。
音声朗読のオーディブル版が、つい先日(2022年10月28日)にリリースされたばかり。こちらは声優の三瓶由布子が語り手を務めている。再生時間は12時間38分!
おススメ度、こんな方におススメ!
おすすめ度:★★★(最大★5つ)
本当の自分と、人目を気にして周囲にあわせている仮面をつけた自分。そのギャップにいつも悩んでいる方。人と人が理解しあうことの難しさを痛感している方。アイドルグループが登場する小説作品を読んでみたい方におススメ。
あらすじ
バンドマンの彼氏。仲のいい友人たち。やさしい家族。恵まれた環境の中で日々を過ごす、女子高生糸林茜寧。しかし茜寧は「愛されたい」と願うあまりに、本来の自分を他人に見せられずにいた。ある日、茜寧は、愛読する小説『少女のマーチ』の登場人物にそっくりな「あい」に出会う。本当の自分を見つけて欲しい。解き放って欲しい。それは運命の出会いなのか……。
ここからネタバレ
三人の主要登場人物
『腹を割ったら血が出るだけさ』は三人称形式で書かれた小説で、各パートごとに視点となる人物が入れ替わり物語は進行していく。メインとなるキャラクターはこちらの三人。
- 糸林茜寧(いとばやしあかね):ヒロイン。一見幸せそうに見える女子高生だが、実は深い孤独の中にいる。
- 宇川逢(うかわあい):ライブハウス店員。美形女装男子。裏表のない、真っすぐな性格。
- 後藤樹理亜(ごとうじゅりあ):アイドルグループ「インパチェンス」メンバー。アイドルとして生きるために自分を偽って生きている。
主人公の糸林茜寧は、陽気で社交性が高く、彼氏アリ、友人多数、家族とも円満と、絵にかいたような愛され女子高生。しかし茜寧は「愛されたい」と願う強い思いから、いつも人の目を気にしてばかり。相手にとって都合の良い自分を演じて生きている。本来の姿である「腹黒い自分」との差が広がっていくことに悩み続けている。
一方の、宇川逢はライブハウス店員の店員で成人男性。美形男子で、常時女装(精神的な性別は男性のようだ)。自分を偽らない性格で、かけひきをしない。真っすぐな人物。その反面、屈折した他者の内面を推しはかるのが苦手で、地雷を踏みがちなタイプでもある。
そして三人目、後藤樹理亜は人気アイドルグループ「インパチェンス」の中で、ボーイッシュなキャラクターを担う。樹理亜は自分が決めた「ストーリー」に沿って生きることで、アイドルとしての自分の価値を保とうとしている。他者が見たい、愛したい「アイドルとしての後藤樹理亜」を演じて生きている。
本当の自分はこうじゃない
「愛されたい」とは「嫌われたくない」の裏返しだ。パーフェクトな女子高生に見える糸林茜寧は「愛されたい(嫌われたくない)」に呪縛され、仮面をつけて生きている。後藤樹理亜はその上位互換とも言えるキャラクターで、オリジナルの自分を押し殺し、アイドルを演じて生きている。さまざまな外圧や、自分の中のコンプレックスから、もともとの自分を外に出せず、鬱屈した毎日を送っているという点でこの二人は似ている。
本来の自分と違った仮面をつけて生きていくのは辛いことだ。
追い詰められていく糸林茜寧は小楠(おぐす)なのかの小説作品『少女のマーチ』に救いを求めていく。『少女のマーチ』のヒロイン像に自分を投影し、物語に登場するキャラクター「あい」の姿を、現実の人物宇川逢に見出し、依存を深めていく。
そしてアイドルを演じ続ける後藤樹理亜は、SNSでのアンチとのいさかいに巻き込まれ、「ストーリー」を生きることに疲弊し、ついに大切なコンサートの当日に姿を消す。
本当の自分はこうじゃない。でも、本当の自分を外に出して生きていくのは怖い。そんな思いは誰にでもあるのではないだろうか。世間にあわせてしまう自分。迎合してしまう自分。こんな自分は嫌だ。
抑圧された二人の女性、糸林茜寧と後藤樹理亜のメンタルは限界を迎え。それぞれのやり方で暴走を始める。
理解も共感も出きないけど
糸林茜寧と後藤樹理亜。この二人はそれぞれに深刻な悩みを抱えたキャラクターだ。だが、彼女たちのように、外向けの自分と、本来の自分とのギャップに悩むのは、程度の差こそあれ、多くの読み手にとっても、覚えのあることなのではないだろうか?
どちらかというと特異な存在は宇川逢の方だと思える。裏表のない竹を割ったようなさっぱりとした性格。友人に対しては誠実で、出来る限りのことをしてあげようとうとする。本来の自分のままに生きていける。宇川逢のような人間の方が、世の中的には希少だろう。
ふたりの女性の悩みに真摯に向き合おうとする宇川逢だが、絶望的なまでに、その悩みの本質を理解できていない。宇川逢には、糸林茜寧が死を選ぼうとした理由も、後藤樹理亜がコンサートを放棄した理由も、根本的には理解できていないのだと思う。
理解も共感も出きない。ただそれでも宇川逢は彼女たちに寄り添おうとする。一緒に在ろうとする。人と人が本質的に理解しあうことは難しいのだけれど、それでも傍にいることはできる。そして傍にいてくれる人がいるだけで、人は生きていくことが出来るのかもしれない。
タイトル『腹を割ったら血が出るだけさ』を考える
最後にこの物語の題名『腹を割ったら血が出るだけさ』について考えてみる。「腹を割る」とはこんな意味を持つ慣用句だ。
腹を割る
何事も隠さず、すべてをさらけ出すこと。本心を打ち明ける。何事も腹を割って話してくれる人でないと頼りにならない。
本来の自分の姿をさらけ出してみる。「腹を割って」他者と話をしてみることで、相手を理解することが出来て、コミュニケーションがうまくいく。「腹を割る」とはそんな意味を持つ言葉だ。
だが『腹を割ったら血が出るだけさ』と作者は言うのである。「腹を割って」みたところで、「血が出る=傷つく」だけで、他者との距離は縮まらない。
物語の終盤に至って、糸林茜寧はついに自分の本音を宇川逢にぶちまける。
「裏表も持たないでずっと本当の自分のまま生きてる奴が、私のこと分かった風に止めるな!」
『腹を割ったら血が出るだけさ』p356より
ほとばしる感情のままに激昂してしまった糸林茜寧だが、そこには何の達成感も自己実現感もなかった。宇川逢が、糸林茜寧の気持ちを理解できたとも思えない。
ただ、糸林茜寧の「本気」だけは伝わったのではないだろうか。「腹を割ったら血が出る」それでも、人間には時としてそうせざるを得ない時がある。人と人が理解しあうことは難しいけれど、本当に必要な相手に対しては「血が出る=傷つく」としても、本気で向き合わねばならない時があるのだ。
おまけ、小楠なのか=作者の想い?
『腹を割ったら血が出るだけさ』の冒頭とラストには、作中作『少女のマーチ』の作者である小楠なのかが登場する。小楠なのかはデビュー作が大ヒット。一躍、人気作家の仲間入りを果たし、三作目の『少女のマーチ』は実写映画化されている。
どことなく、大ヒット作『君の膵臓をたべたい』でデビューした、住野よるのプロフィールに似ていないだろうか。
作品がヒットするということは、多くの人々に物語が読まれる事であり、考えの違う相手から批判を受けることにもなる。逆に、熱狂的なファンが作品に依存し、過剰な思いを寄せてくることもあるのだろう。本作の中で、作者は小楠なのかの口を借りて、こう言わせている。
「私は、物語が、小説が、誰かを救うなんてこと、ないと思っているの」
『腹を割ったら血が出るだけさ』p391より
一見すると、ファンを突き放すかのような言葉だ。
自分の存在や生み出すものに、どこかで重ねてしまう無力感なんてあの頃は思いも寄らなかった。無数の物語が紡いできた想像力を、一つの悪意が台無しにする虚無感なんてあの頃は存在も知らなかった。
『腹を割ったら血が出るだけさ』p391より
これを読むと、辛いことがいろいろあるんだろうな。人気作家になるのも楽じゃないよなと感じさせられる。
だが、それでも最後に小楠なのかこうも言うのだ。
「どうかこの物語が、あなただけのものでありますように」
『腹を割ったら血が出るだけさ』p392より
ひとたび、作家の手を離れた物語は、作家自身のコントロールを離れる。物語は、読み手ひとりひとりの所有物となる。物語をどう解釈するかは、読者に委ねられるのだ。どんな悪意を持った読み手が存在したとしても、自分がその物語を肯定的に受けとめたのだとしたら、読み手の中でそれは真実だ。そこに物語の強さはある。日々、揺らぎながらも、語り手である作者自身もそれを信じているのだ。