圧倒的な熱量を感じる氷室冴子評論本
2019年刊行。筆者の嵯峨景子は1979年生まれのフリーライターで、専門は社会学、文化研究。2016年の『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』に続く第二作である。
内容はこんな感じ
『クララ白書』『なんて素敵にジャパネスク』『海がきこえる』。1980年代から1990年代にかけて、数多くの作品を送り出し、一世を風靡した人気作家氷室冴子。コバルト文庫でのデビューから人気作家になるまで、一般文芸への進出、ファンタジーへの挑戦、そして早すぎた死まで。作家、氷室冴子生涯を多方面への取材と、丹念な調査により明らかにしていく。
わたしと氷室作品
まずは自分語り(笑)から。
わたしが初めて読んだ氷室作品は、当時の読書記録によると、『雑居時代』で1984年のこと。友人のSくん(元気だろうか?)から借りて読んだ。
『雑居時代』は1982年刊行だから、リアルタイム読者とはまだ言い難い。続いて同じクラスのNさんから『蕨ヶ丘物語』。部活が同じだったEさんから『なぎさボーイ』を借りて、本格的に氷室冴子沼にハマっていくことになる。この時期、氷室冴子作品は男女問わず中高生の間で猛烈な勢いで読まれていて、貸してくれる人間に困ることがなかった。続いて『なんて素敵にジャパネスク』シリーズがスタート。このあたりから、刊行された作品はほぼリアルタイムで読んでいる。
氷室作品を自分で買うようになったのはもう少し先の話で、二十歳を超えてから。アルバイトをし始めて、ある程度自由にお金が使えるようになった段階で一気に既刊を買い揃えた。十代後半から二十代にかけて、もっとも読んだ作家の一人であることは間違いない。
その後、90年代に入り、わたしも社会人に。就職直後の数年は一気に忙しくなってしまい、一時的に読書量が減った。氷室作品の新刊がなかなか出ない時期に突入したこともあり、ちょっと縁遠くなってしまった。更に2000年代に入ると氷室作品は全く新作が出なくなり、どうしたのかな?なんとなく気になっていたところで、飛び込んできたのが氷室冴子の訃報であった。一つの時代が終わってしまったかのような寂寞感を禁じえなかったことを覚えている。
本作で知ったことだが氷室冴子の東京での住まいは京王線の芦花公園駅にあったらしく、これはわたしが結婚前に住んでいた仙川駅の僅か二駅隣の距離である。電車で同じ車両に乗りあわせたことくらいはあったかもしれない。
さて、前置きが長くなった。氷室冴子作品については相応に読み込んできたつもりであったが、『氷室冴子とその時代』では多くの新情報を知ることができた。以下、その点について特に記していきたい。
クララ舎とアグネス舎は実在した!
これは、たぶん熱心なファンの方なら周知の事実かな?恥ずかしながらわたしは本書で初めて知った。クララもアグネスも、おそらくはキリスト教の聖人の名前なのだろう(たぶん)。ちょっとググってみたがよくわからない。きちんとした女子高の施設だからあんまりネットに情報は出ないのかもしれない。
『クララ白書』については以前にレビューを書いているので、宜しければ是非。
書籍化されていな初期作品がけっこうある
初期作品の話で、他にビックリしたのが、「小説ジュニア」時代の発表作で、文庫未収録の短編がけっこうあること。p66のリストから抜粋引用させてもらうと以下の通り。
1977年「悲しみ・つづれ織り」
1978年「北海道へのあこがれ」(エッセイ)
1978年「あなたへの挽歌」
1979年「おしゃべり」
1980年「私と彼女」
1981年「氷室冴子編・読者の告白体験記/文通の功罪」(エッセイ)
1981年「売れっ子作家の素顔は乙女チックレディー」(インタビュー記事)
これ一冊本出せるじゃん!80年代の全盛期に出していれば絶対に売れた筈である。なぜ出さなかった?『クララ白書』以前の『さようならアルルカン』『白い少女たち』みたいな、初期の内省的な作品が結構好みなので、これはなんとかして読んでみたいものである。国会図書館で探してみようかな。
※2021/1/24追記
初期作品集刊行されました!『さようならアルルカン』『白い少女たち』とのカップリング。貴重な作品なので是非読んでいただきたい。感想はこちらから。
マンガ原作系はあまり読んでいなかった
藤田和子の『ライジング!』をはじめとするマンガ原作の仕事は、まったく読めていなかったのでこれも反省点。1981年からだから、売れっ子作家になる前。氷室冴子のキャリアの中でも、かなり早い時期の仕事ということになる。『ライジング!』が始まる前からの知己であったというのも初めて知った。
氷室冴子の商業演劇(特に宝塚)への傾倒は、ファンなら誰でも知っている事実だが、これほど初期のころからハマっていたとは。この章では藤田和子への丹念な取材が行われていて新情報目白押しなのであった。
「シンデレラ」シリーズの三作目企画が存在した!
これも実は有名?
『クララ白書』シリーズや『雑居時代』、『ざ・ちぇんじ! 』とコメディ路線に舵を切っていた当時の氷室作品にあって、『シンデレラ迷宮』『シンデレラミステリー』は久しぶりの内省派路線で、初期作品の暗鬱としたトーンが好きな人間には堪らないものがあったのである。
幻のシリーズ三作目『おやすみのシンデレラ』は伊豆の別荘地を舞台とした幼女殺人を扱った物語であったが、当時、宮崎勤の幼女連続殺人事件が発生したために執筆を断念したとのこと。この作品のコンセプトは後に『碧の迷宮』に生かされるのだが、この作品が未完に終わったことはファンなら周知の事実。なんとも残念なことである。
執筆中断期、旧作のリライト時代
『銀の海 金の大地』の第一部完結後、90年代の後半から氷室冴子は新作を書かなくなる。それは何故だったのか?かつてのファンとして、もっとも関心を持って読んだのはこの部分である。
この件について、『氷室冴子とその時代』では第10章「氷室冴子は終わらない」で詳しく書かれている。p316の1996年以降の執筆リストはよくぞこれだけ調べたという労作で、90年代後半から2000年代にかけての氷室冴子の活動が、旧作のリライト作業に充てられていたことよくわかる。
最近まで存在を知らなかったが、「Saeko's early collection」と題された初期作品のリライト版が1996年に刊行されていた。
ラインナップは『ざ・ちぇんじ!(上・下)』『クララ白書(上・下)』『アグネス白書(上・下)』『雑居時代(上・下)』の四作、全八巻構成。表紙にはキャラクターのイラストがなく、大人になったかつてのファン向けとでもいうべき愛想版の装いである。
そして『クララ白書』に至っては2001年に二度目のリライト版が刊行されている。余程思い入れの強い作品だったのだろうか?
ただ、1996年~2001年まで、氷室冴子の執筆活動が旧作のリライトに振り向けられていたことはよくわかった。作家としての充電期間、暗中模索の時期であったことも推測として示されてはいる。しかし、何故に新作を書かなくなっていたのかまでは明確にされていない。こればかりは本人の証言が取れない以上、もはやどうしようもないことではあるのだが、ファンとしては最大の関心事だっただけに残念。
わたし自身は、やはり病気のことがあっただけに、作品執筆よりも、自身にとって悔いのない生き方を選んだのではないかと思っていた。しかし肺がんの診断が2005年であったと知り、やはりこの空白期間は謎として残ってしまっている。
未読の氷室作品
『氷室冴子とその時代』を読んだことで、氷室冴子作品の未読本が整理できた。ほとんどの作品を読んできたつもりだが、まだまだ未知の作品はあるものである。
未完に終わった『碧の迷宮』の上巻は、いつか下巻が出たらまとめて読もうと思い、今でも未読のままである。これは敢えて読まずにおいた一作。もう読んでもいい頃かもしれない。
そして、氷室冴子による現代語訳版『落窪物語』も存在は知りながらも手が出ていなかった作品である。
そして、氷室冴子の死後、2012年に刊行された『月の輝く夜に/ざ・ちぇんじ!』今回初めて存在を知った一冊である。「ざ・ちぇんじ!」との合本になっていて、ものすごい分厚さになっているのだが、本作が氷室冴子の絶筆であるとすれば買わないわけにはいかないだろう。
氷室冴子ガイドの決定版
ということで、『氷室冴子とその時代』の感想というよりは、同書をネタにして氷室冴子作品の思い出をダラダラ語るようなエントリになってしまった。
あらためて強調しておくが、本作は氷室冴子ガイドの決定版である。400頁に近い長大なボリュームだが、氷室冴子作品に親しく接してきた読み手であれば、おそらく貪るように読み切ってしまう筈である。
作品本編だけでなく、雑誌掲載時、リライト版、再リライト版までも読み込み、インタビューや、書評の類までを丹念に追いかけているのである。これだけの熱量を持ち、充実した評論はもう出ないのではないか。各作品の解釈についても、今後のフォロワーたちは嵯峨景子の影響から逃れることはできないであろう。
おまけ、氷室冴子ガイドの系譜
氷室冴子に関してのガイドブックは、実は本作だけではない。本作以前に刊行された書籍についても紹介しておこう。
『氷室冴子読本』
1993年刊行。氷室冴子自身が編集長としてかかわったファンブックである。版元は徳間書店。1993年までに刊行された氷室作品の紹介が、氷室冴子本人によりなされており、作品の成立事情を知るうえで非常に興味深い。
この年は『海がきこえる』(徳間から出ていた)の刊行年でもあり、同作を盛り上げる一環でもあったのだろう。巻頭から『海がきこえる』が大きく取り上げられている。
『氷室冴子:没後10年記念特集』
こちらは2018年刊行。河出書房新社より。タイトルの通り、没後10年の機会に企画されたムック本である。執筆陣の豪華さに瞠目していただきたい。2018年に刊行されているだけあって、作品リストとしてはほぼ完全なものが巻末に収録されており利便性が高い。作品紹介は三村美衣が担当している。
嵯峨景子も執筆者のひとりとして「氷室冴子 忘れえぬ作家の軌跡」を寄稿しており、プレ『氷室冴子とその時代』とでも言うべき内容になっている。