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『海がきこえる』氷室冴子 1990年代の高知、東京を舞台とした青春小説


氷室冴子、最後期の作品

徳間書店のアニメーション情報誌『アニメージュ』の1990年2月号から、1992年1月号にかけて連載されていた作品を大幅改稿(後述)したうえで単行本化した作品。

単行本版は1993年に刊行されている。大長編シリーズであった『銀の海 金の大地』を除けば、『海がきこえる』及び、その続編である『海がきこえるII』は、氷室冴子(ひむろさえこ)の存命中に発売された最後の小説作品でもある。

表紙、および、本文中のイラストは、『アニメージュ』連載時と同様に、アニメータ、イラストレータの近藤勝也(こんどうかつや)が担当している。

また、巻末には氷室冴子自身によるあとがきが収録されている。

最初の文庫版は徳間書店から1999年に刊行された。単行本版からの修正あり。文庫版にも氷室冴子のあとがきは収録されているが、単行本版とは内容が異なる。

『海がきこえる』は長らく絶版状態が続いていたが、2022年に徳間文庫の復刊専門レーベル「トクマの特選!」枠で、再文庫化された。旧文庫版に掲載されていた、氷室冴子によるあとがきを再録。加えて、酒井若菜による解説が新たに追加されている。

海がきこえる〈新装版〉 (徳間文庫 トクマの特選!)

表紙、本文中イラストは引き続き近藤勝也。『アニメージュ』連載時のカラーイラストが、多数収録されている。カラーイラストを掲載するためなのか、新装版の『海がきこえる』は紙質が分厚く、リッチな作りになっている。

ちなみに、単行本、旧文庫版、新装文庫版に登場する女性はすべて、ヒロインの武藤里伽子(むとうりかこ)で、同一人物である。三枚目だけやけに表情が異なるが、これも雑誌連載時のもの。

里伽子の目力がスゴイ。里伽子本来のキャラクターを考えると、この一枚を新装文庫版の表紙絵にセレクトしたのはかなりの慧眼と言える。

おススメ度、こんな方におススメ!

おすすめ度:★★★★★(最大★5つ)

エモーショナルな青春小説、恋愛小説を読んでみたい方。高知弁の響きを味わいたい。高知を舞台とした小説作品を読んでみたい方。1990年代を舞台とした物語に興味のある方。最後期の氷室冴子作品に触れてみたい方におススメ!

あらすじ

大学生の杜崎拓(もりさきたく)は、上京後、高校時代の因縁の相手、武藤里伽子が地元での進学を蹴り、東京の大学に通っていることを知る。修学旅行先でのやりとり。二人だけの東京行。文化祭での事件。里伽子との思い出が、次々と甦る中、拓は、自らの恋心を自覚する。意地っ張りで、打算的。時には平気で噓をつく。そんな里伽子に振り回され続けた日々を拓は静かに追想していく。

ここからネタバレ(アニメ版も含む)

万人向けではないヒロイン武藤里伽子

『海がきこえる』のヒロイン武藤里伽子は、東京からの転校生だ。高知市内の中高一貫の進学校に五年生(高二)の時点で転校してきている。季節外れの転校の理由は、父親の浮気で両親が離婚したことによる。人との繋がりが濃い高知では、見も知らぬ他人が里伽子が高知に来た理由を知っている。うまく聞き取れない高知弁。まわりからの奇異の眼。自身の人を寄せ付けないキャラクターもあって、次第に里伽子は周囲から孤立していく。

ここまで書くと、ちょっと同情すべき女子高生といった気がしないでもないのだが、里伽子はカンタンに同情できるほどかわいい性格をしていない。こんな田舎にいつまでも居られない。父親の居る東京に戻りたい。そのために里伽子は大胆な行動を開始する。

このアクションに巻き込まれたのが主人公の杜崎拓だ。バイトをして小金を持っていた拓は、上京するための資金を求めていた里伽子のターゲットになる。都会から来た綺麗な女の子からの、最初の声かけがカネ目当てだったというのは、高校生男子的にかなり衝撃的な事態だろう。

里伽子が高知に来てからの二年弱、拓はとにかく彼女に翻弄され続ける。打算的な性格が強烈で、里伽子は好悪が分かれるキャラクターだ。決して万人向けとは言えないヒロインだと思う。ただ、要所要所で間が抜けていて、絶妙な「放っておけない」感を漂わせる。ぎりぎりを狙った里伽子の人物造形の巧みさは、さすがは氷室冴子といった筆の冴えを感じる。

ボーイがマンになる話

『海がきこえる』にはもう一人、重要なキャラクターが存在する。主人公の親友である、松野豊(まつのゆたか)だ。クラスが一度も一緒になったことがないのに、不思議に気があう間柄(あるある)。中学時代の修学旅行が、学校側の一方的な言い分で中止になったことに端を発する、松野と拓の馴れ初めエピソードが個人的に大好きだった。

ぶっちゃけ、里伽子との関係はいつか終わってしまうかもしれないけれど、松野との間柄は長く続くだろうな。

本作は、ボーイ(少年)がマン(大人の男)になる物語でもあるのだなと改めて思った。拓にとって松野は、自分より一歩先を歩いている「マン(大人の男)」だった。一目置いているし、尊敬もしている。それだけに、松野が好意を持っている里伽子には、自然と距離を取ってしまう。松野が居ることで、拓の気持ちには抑制が働き、里伽子への恋愛感情を自覚するのが遅れる。拓が自分の中の里伽子への想いに気付いた時には、二人の仲は修復不可能なまでにこじれてしまっている。

『海がきこえる』は、従来の氷室冴子作品にくらべるとドラマティックな展開を極力排している。それでも、こうしたストーリーテリングの妙味はさすがの上手さだ。

誰もが知っている物語

文庫版のあとがきで、氷室冴子はこう書いている。

だれもが、これは知っている話だ。経験したことがある、こんな感情を知っているという既視感とともに、懐かしさに包まれて読むような物語。

『海がきこえる』新装文庫版「あとがき」p314より

気になる異性の、消息が気になるけれど勇気がなくて連絡先が聞けなかったり、二人で居るのに、入る店が決められずにいつまでも歩いてしまったり、上手くいかなかった恋愛がちょっとだけに前に進みそうなときの高揚感とか、『海がきこえる』の中には「誰もが知っている物語」がふんだんに盛り込まれている。

『海がきこえる』は、二十代の頃にはじめて読んだときには、未来への可能性を湛えた、幸せな予感に満ちた青春小説といった面持ちが強かった。だが、歳月を経て再読してみると、遠い日の懐かしい感情を思い出せてくれる、タイムカプセルのような作品なのだなと実感させられた。時代を超えて読み継がれていく作品は、こうした多面性を持っているものなのかもしれない。

今回の新装文庫版の発売は、まったく予想もしていなかっただけに嬉しかった。せっかくなので、続編の『海がきこえるII』も是非、再文庫化して欲しい(って、絶対出るだろうな)。

いちおう、旧文庫版のリンクを貼っておこう。90年代テイスト満載の表紙絵だ。

『アニメージュ』連載版が気になる

冒頭にも書いたが『海がきこえる』は、雑誌連載時のバージョンから大幅に改稿されている。東京編(大学時代)における高知パートがカット。これで津村知沙の出番が減った。拓、松野、里伽子、知沙の四万十川ドライブシーンが存在していたのだ(この微妙な空気感よ)。

そして最大の変更点は、同窓会後、高知城眼下での拓と里伽子のキスシーンがカットされている点にある。拓と里伽子の関係性を、作中ではあえて進めない選択を作者はしている。

今となっては入手困難で、国会図書館にでも行かないと閲覧が難しいと思うけど、『アニメージュ』連載版を、いちど通して全部読んでみたかった。

「劇的」を廃したアニメ版『海がきこえる』

『海がきこえる』のアニメ版は1993年に放映されている。スタジオジブリ作品だが、映画ではなく、テレビスペシャルで放映された。宮崎駿も高畑勲も関与しない、若手スタッフ中心で作られた特殊な作品だ。監督は望月智充。脚本は中村香が担当。

派手な演出や、感傷的なBGMで盛り上げたりといった「劇的」な見せ場を作らない。原作小説の静かさを最大限生かした、ジブリの中でも隠れた名作だろう。実際に聴く高知弁の響きの豊かさ。そして、ラストの高知城のシーンで醸し出される抒情性が素晴らしい。

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キャスティングは以下の通り。里伽子のみ舞台人だが、それ以外はすべて声優からキャスティングされている点でも、ジブリ作品としては異色だろう。

杜崎拓:飛田展男
武藤里伽子:坂本洋子
松野豊:関俊彦
小浜裕実:荒木香恵
山尾忠志:緑川光
清水明子:天野由梨

小説版との違いはザックリ書くとこんな感じ。

  • 東京編がほぼカット
  • 同窓会に里伽子が参加しない
  • 同窓会に松野が参加している
  • 終盤の里伽子がややデレ気味
  • ラストシーンが完全オリジナル

テレビスペシャルの尺の短さ(72分)を考えると、東京編のカットは妥当な判断か。「その人はね、お風呂で寝る人なんだよ」はアニメ版オリジナルのセリフで、小説版よりも、里伽子の想いが拓に寄っている印象を受ける。

ちなみに、里伽子の大学は東京女子だと思うので、吉祥寺にいるのはまあ、わかる(でも家は豪徳寺だからJRに乗らない気も、井の頭線で下北沢乗り換えで小田急だよね)。一方、石神井公園住みで、学校は日芸(たぶん)の拓が、吉祥寺駅を使っているのはなぜか、という、微妙な部分が気になったり

さらに、余談ながら『海がきこえる』のモデルとなった、中高一貫の私立校は、土佐高校だと思われる。だが、アニメ版で登場する特徴的な校舎の外観は、高知追手前高校のもの。高知追手前高校は公立の進学校で、土佐高校にとってライバル的な存在。

 

アニメ版『海がきこえる』はジブリ作品なので、ネット配信はやっていない。わたしはTSUTAYA DISCASでDVDをレンタルして視聴した(月額2,052円(税込)が、入会から30日間無料お試し(0円))なので気になる方はチェック。

氷室冴子作品の感想はこちらから

小説作品

『白い少女たち』 / 『さようならアルルカン』 / 『クララ白書』 / 『アグネス白書』 / 『恋する女たち』 / 『雑居時代』 / 『ざ・ちぇんじ!』 / 『少女小説家は死なない! 』 / 『蕨ヶ丘物語』 / 『海がきこえる』 / 『さようならアルルカン/白い少女たち(2020年版)』

〇エッセイ

『いっぱしの女』 / 『冴子の母娘草』/ 『冴子の東京物語』

〇その他

『氷室冴子とその時代(嵯峨景子)』