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『Iの悲劇』米澤穂信 限界集落は再生する?「甦り課」の活躍を描く公務員ミステリ

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米澤穂信が描く公務員小説

2019年刊行作品。文藝春秋のミステリ誌「オールスイリ」、小説誌「オール読物」に掲載されていた短編作品四作に、序章の「Iの悲劇」、終章の「Iの喜劇」、更に書下ろし二編を加えて上梓されたもの。

Iの悲劇

Iの悲劇

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文春文庫版は2022年に刊行されている。解説は篠田節子が担当。

Iの悲劇 (文春文庫)

2019年の「週刊文春ミステリーベスト10」で第四位。2020年版の「このミステリーがすごい!」では第十一位。2020年版の「本格ミステリ・ベスト10」では第十二位にランクインしている。

作者へのインタビュー記事はこちら。

おススメ度、こんな方におススメ!

おすすめ度:★★★(最大★5つ)

地方の限界集落を舞台としたミステリ作品を読んでみたい方。連作短編形式のミステリがお好きな方。公務員が主人公の作品に興味がある方。米澤穂信ならではの、ほろ苦テイストのミステリを堪能したい方におススメ。

あらすじ

人口六万。市町村合併で全国でも有数の面積を誇るに至った南はかま市。過疎化にあえぐこの市では、住民が居なくなった山間の限界集落、簑石を再生させるべく、市役所に南はかま市Iターン支援推進プロジェクト「甦り課」を創設。積極的に移住者を募り町おこしをはかる。各地から集まってくる癖の強い住民たち。市職員の万願寺邦和はその対応に追われることになるのだが……。

限界集落に輝きは戻るのか?

『Iの悲劇』では、高齢化が進み、とうとう住民がゼロとなってしまった、限界集落簑石(みのいし)を舞台としている。集落の再生に携わる、南はかま市「甦り課」の面々は以下の通り。

  • 万願寺邦和(まんがんじくにかず):主人公。公務員としての出世を望んでいる。仕事はしっかりするタイプ。
  • 観山遊香(かんざんゆか):二年目の新人職員。人当たりは良いが、サバサバし過ぎている側面も。
  • 西野秀嗣(にしのひでつぐ):課長。常に定時退庁の無気力人間?

簑石への移住者には土地や住宅が提供されたり、転居時の費用が支給されるなど、市からさまざまな便宜が図られる。この対応を行うのが、主人公の属する「甦り課」だ。

簑石は南はかま市の中でも特に辺鄙な場所に立地しており、中心部からは車でも一時間近くかかる。スーパーなし、飲食店なし、公共交通機関もなく、冬は豪雪に閉ざされる。果たしてこのようなところに住みたいと思う人間は存在するのか?

このプロジェクトへの疑問を拭いきれない万願寺だが、簑石の再生計画は、市長の肝いり企画となっておりやらないわけにはいかない。移住を希望する面々は、どういうわけか「めんどう」な住民ばかりが揃っていて、万願寺には次から次へとクレームが寄せられる。本作はそんな万願寺の「甦り課」での苦闘の日々を綴った連作短編集となっている。

では、以下、各編ごとにコメント。

Iの悲劇

書下ろし。プロローグにあたるパート。

簑石では住民の高齢化で次々と人がいなくなっていく。ひとり去り、ふたり去り、そして最後の一人が村を去る。「そして誰もいなくなった」。簑石の集落の歴史は閉ざされようとしていた。

軽い雨

初出は「オール讀物」2013年11月号。

「甦り課」最初の仕事は、二組の移住者の受け入れから。しかし、さっそく騒音トラブルが発生。久野家と安久津との間に起きた摩擦は思わぬ展開を遂げることに。

本編に登場する住民はこちら。

  • 久野吉種(くのよしたね):会社員。30歳。ラジコンヘリが趣味。妻(朝美)と二人暮らし。
  • 安久津淳吉(あくつじゅんきち):32歳。妻(華姫)と娘(きらり)の三人暮らし。

爆音で音楽を流し続ける安久津に、たまりかねた久野が起こした事件とは。安い家賃に釣られてくるからか、集まってくる移住者たちの社会性が微妙……。いちいちクレームを入れられて、現地まで行かないといけない主人公の心労を考えると、公務員の偉大さがよくわかる。

浅い池

書下ろし。

「甦り課」のプロジェクトが本格的に稼働。10世帯、15名のあたらしい住民を迎えた簑石では開村式が開かれる。簑石でのビジネス立ち上げをもくろむ、牧野慎哉は、稚鯉の養殖事業をスタートする。しかし、牧野の事業は思わぬトラブルから頓挫することに……。

本編に登場する住民はこちら。

  • 牧野慎哉(まきのしんや):24歳。起業志向の男性。

ミステリテイストは薄め。本人のやる気もあって、誰が邪魔をしたわけでもないのに、無知であるがために、その意欲を挫かれるお話。都会人の地方移住の難しさを教えてもくれる一編。

重い本

初出は「オール讀物」2015年11月号。

蔵書家の久保寺の家には、隣人の五歳の息子、速人(はやと)が顔を出すようになっている。移住者たちの間ではじまった交流を微笑ましく見守る万願寺。しかし、速人が行方不明になり、事態は意外な展開に……。

本編に登場する住民はこちら。

  • 久保寺修(くぼでらおさむ):50代。アマチュアの歴史研究家。
  • 立石善己(たていしよしみ):システムエンジニア。妻(秋江)、息子(速人)との三人暮らし。息子の療養のために簑石へ。

久保寺が住む前に、この家に住んでいた中杉家にまつわる秘密。消えた子供はどこに行ってしまったのか?島流しのような「甦り課」の仕事を厭いながらも、根が真面目なのでしっかり対応してしまう主人公。住民たちに悪意はないのに、関係が崩れていく展開が切ない。このあたりから、「甦り課」というか、西野課長の怪しさが際立ち始める。

黒い網

書下ろし。

クレーマーの河崎由美子の存在が周辺住民とのトラブルを招いている。秋祭りのバーベキュー大会で異変が起こる。由美子に毒キノコを食べさせたのは誰なのか?そして犯人はどうして彼女を狙ったのか……。

本編に登場する住民はこちら。

  • 滝山正治(たきやままさはる):24歳。独身。元会社員。体を壊し退職。
  • 上谷景都(うえたにけいと):31歳。独身。アマチュア無線が趣味。
  • 河崎一典(かわさきかずのり):タクシー運転手。妻(由美子)は専業主婦で、クレーマー気質。

焼き網に乗った毒キノコをいかにして、狙った相手に食べさせるか。本人の自由意思で選んでいるかに見えて、実は犯人が狙ったものを意図的に選ばされている。そんな「マジシャンズ・セレクト」ネタをあつかったお話。

深い沼

書下ろし。

既に八世帯が簑石を去り、南はかま市Iターン支援推進プロジェクトは危機を迎えていた。市長からの「現状報告をせよ」の命。「甦り課」課長の西野に伴われ、万願寺は市長室を訪れる。激しい叱責を受けるものと覚悟していた万願寺だったが……。

今回は簑石のお話ではなく、いかにして「甦り課」は生まれたのか。南はかま市の周辺事情と、主人公万願寺個人を深掘りするエピソード。

南はかま市を見限り、都会で暮らす弟の言葉「経済的合理性からは逃げられない」が、万願寺の心を抉る。この国全体が、深い沼に、じわじわと沈み込んでいく。全国的な高齢化、過疎化が進む中で、万願寺の仕事は「撤退戦」であり「消耗戦」だ。その未来は暗い。

白い仏

初出は「オール讀物」2019年6月号。

簑石には名仏師円空が遺した木彫りの仏像がある。仏像を保管する若田家と、円空仏を使った村おこしを考える長塚との間にトラブルが発生する。その最中、若田家から円空仏が消える。犯人は誰か?そしていかなる方法で事件を起こしたのか?

本編に登場する住民はこちら。

  • 若田一郎(わかたいちろう):27歳。妻(公子)との二人暮らし。
  • 長塚昭夫(なかつかあきお):54歳。仕切りたがりのエネルギッシュな人物。

無邪気な第三者に思えていた観山がいきなり怪しくなってきた。円空仏が本物であれば、文化財として重要であり、それなりに村おこしに使えそうなのに、まったく興味を示さない元住民も不気味。こういう無関心で、いろいろな文化財が、人知れず埋もれていっているのかもしれない。

Iの喜劇

書下ろし。エピローグにあたるパート。謎解き編。

「そして、誰もいなくなってしまった」。相次ぐトラブルで、簑石に移住していたすべての世帯が集落を去った。失意の中、万願寺は住民たちが居着くことを望まない、悪意の存在に気付く。

  • 安久津家での小火騒ぎを誘導した観山
  • 牧野の養殖鯉は、観山の書類作成が遅れたために全滅した
  • 久保寺家の防空壕の存在を西野課長は知っていた
  • 焦げの発がん性を指摘し、川崎由美子を誘導したのは観山
  • 円空仏のレプリカを長塚に渡したのは西野課長

「甦り課」の中で、真面目に住民たちのことを考えていたのは万願寺だけで、課長と観山は、ただひたすら、住民たちの間に「不和のリンゴ」を投げ続けていた。

その背景には、簑石のような限界集落に市のリソースをかけていられないという財政事情があった。市長の勇み足で始まってしまったこの企画を、一刻も早くクロージングしたかった勢力があり、西野と観山はその役割を担っていたというわけだ。

一癖も二癖もありそうな、厄介な移住者たちばかりが、あえて選ばれていたことにも納得がいく。すべては最初から西野課長らの計画通りに事態は推移していたのである。

米澤穂信版「そして誰もいなくなった」

第一章「軽い雨」の冒頭で、作者はこう書いている。

木製の船を保存するため、朽ちた木材を取り替えていく。櫂を取り替え、帆柱を取り替え、船底を取り替えていく。そうして長い時間が過ぎ、やがてすべての部品が交換されたとき、それは元の船と同じものと言えるだろうか。

単行本版『Iの悲劇』p8より

これはよく言われる「テセウスの船」の命題だ。Wikipedia先生から引用させていただくとこんな感じ。

テセウスの船(テセウスのふね、英: Ship of Theseus)はパラドックスの一つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれる。ある物体において、それを構成するパーツが全て置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か、という問題(同一性の問題)をさす。

テセウスの船 - Wikipediaより

いったん無人となった限界集落、簑石に、土地とは無縁の新たな住民を集めたとして、それは簑石と呼べるのだろうか。

この問いかけに対して、作者は第四章の冒頭でこう書いている。

元の住人が誰一人住んでいなくても、この場所は簑石と呼べるだろうか?土地の名前は、そこに住んでいる人間と結びついているべきではないか。

単行本版『Iの悲劇』p150より

「甦り課」の仕事に疑問を抱いていた万願寺だったが、どんな形であれば、そこに人が集まれば社会が生まれる。人と接すればそこには情も生まれる。しかし、そんな万願寺のかすかな希望は打ち砕かれる。

人が住まなくなった集落が朽ちていくのは、経済合理性の観点から致し方ない。自治体のリソースは有限であり、効果的に活用するためには少数を犠牲にするのはやむを得ない。冷徹な西野の論理は、全体を考えたときには確かに正解なのだが、移住者たちの人生に寄り添ってきた万願寺としては受け入れがたいものだった。

「甦り課」の三人も簑石を去り、人間が暮らした集落としての生命が終わる。なんとも米澤穂信作品らしい、ビターな「そして誰もいなくなった」なのであった。

その他の米澤穂信作品の感想はこちらから

〇古典部シリーズ

『氷菓』/『愚者のエンドロール』/『クドリャフカの順番』/ 『遠回りする雛』/『ふたりの距離の概算』/『いまさら翼といわれても』 / 『米澤穂信と古典部』

〇小市民シリーズ

『春期限定いちごタルト事件』/『夏期限定トロピカルパフェ事件』 『秋期限定栗きんとん事件』/ 『巴里マカロンの謎』

〇ベルーフシリーズ

『王とサーカス』  / 『真実の10メートル手前』

〇図書委員シリーズ

『本と鍵の季節』 / 『栞と嘘の季節』

〇その他

『さよなら妖精(新装版)』/『犬はどこだ』/『ボトルネック』/『リカーシブル』 / 『満願』 /『儚い羊たちの祝宴』『追想五断章』『インシテミル』『Iの悲劇』 / 『黒牢城』